朝に溶けて

部屋全体が、白っぽい。きっと雲が多くて日が射さないんだろう。予報では晴れのはずだから、あと1時間もすればこの白っぽい部屋は柔らかい金色の光が射すはずだ。金色の光はまだ差し込まないが、少しだけ眩しい。瞼がずしりと重いけれど、無理矢理こじあける。

「おはよう」

頬も強張っていて、うまく笑えているかどうか自信はない。でも、できるだけ笑って見せようとする。目の前にある、やっぱり瞼が開ききっていない眠そうな江神さんが掠れた声で言うから。私もカサカサに掠れた声で同じ言葉を言う。ついでに腕を伸ばして、江神さんの手のひらを掴む。

「まだ眠いな」

力なく握り返される江神さんの手はとても暖かくて、私も本当に眠い。起きなくちゃいけない事は解っているけど、このまま白っぽい部屋で手を繋いだまま二度寝してしまいたい。

「二度寝、しちゃいたいですね」
「バレたらモチに殺されるぞ」

江神さんはやっぱり半開きの目でにやりと笑う。そうだ、モチさんに借りっぱなしの本を返せって言われていたんだった。それを忘れてもう一週間以上経ってる。昨日もちくちくと突付かれたばかりだ。それは江神さんも聞いていたし、もういい加減返さなくちゃ。

でも、やっぱり。

「もうちょっとこうしてたいです」

重い身体をごろりと返して、私は江神さんに覆い被さる。何も言わないけどちゃんと両腕で支えてくれる江神さんに甘えて、枕に広がる髪に顔をうずめる。自分と同じ香りが漂って、頬に鼻に纏わり付く髪がくすぐったい。いやいやをするように首を振る私のうなじに、柔らかいものが触れる。

「くすぐったいです」
「そのくらい我慢せえ」

何かを探し回るように江神さんの唇がうなじを這い回っている。我慢しろと言われても、くすぐったいものはくすぐったい。逃げようとして首を捻ったり身体を起こそうとするけれど、江神さんの腕にがっちりと押さえられてしまって動けない。さっきまで手を握り返すのも弱々しかったのに。

……今日はこうしていようか」

なんて、甘い声なのだろう。たぶんそんな風に感じるのは私だけなのかもしれないけれど、甘くて丸くて、私の色んな決意を簡単に崩してしまう。そんな事を言われたら、逆らえないじゃない。うなじだけじゃなくって、違う場所にももっとキスして欲しいって思っちゃうじゃない。

「だめですよ」
「お前が先に言うたんやろうが」

それはそうだけど。声を殺して笑う江神さんの吐息がやっぱりくすぐったい。そんなこそばゆさに油断していたら、突然江神さんの顔が目の前に迫っていた。あ、まずい。

「だめだって、言ってるじゃないです、か」

慌てて手のひらで江神さんの顔を押し返す。さっきの話とは別だけどだめ。寝起きのキスは絶対にだめ。

「解ってるけど、今したい」

ほだされそうになるけど、だめなものはだめ。押し返した手で唇を覆ってしまうと、江神さんは不満そうに口を尖らせる。ああ、そんな風に言わないで。そんな顔をしないで。そうやって、私を溶かさないで。

あるだけの精神力、持てるだけの理性を総動員して、私は江神さんの腕の中から逃げ出した。私に跳ね除けられて、江神さんは仰向けにどさりと転がる。腕を投げ出し、にたりと口元を歪めている。ああ、せっかく起こした身体を投げ出してあの胸に飛び込みたい。決意がぐらぐらと揺れる。

「歯、磨いてからじゃなきゃ、いやです」

江神さんの返事も待たずに私は立ち上がる。まだ身体はだるいけれど、手早く歯を磨く。私が磨き終わる頃、ぼさぼさ頭の江神さんがよろよろと後を追ってくる。寝癖の付いた髪をかき上げながら歯を磨いている江神さんを残して私はベッドに戻る。でも、思い直して立ち上がる。

「これで文句ないな」

そう言いながら、やっぱり目が半開きの江神さんを両手を広げて迎えるために。

今日最初のキスは仄かに甘いミントの香りがして、唇は風が吹いたようにすうすうしているのに、ちっとも目が覚めない。だって、冷たい水でゆすいだのに、また暖かいんだもの。ミントの清涼感なんて、あっという間にどこかへ消えちゃうのよ。私の頼りない理性も、消えちゃうのよ。

なんて脆弱な私の決意。だるい身体を奮い立たせて起き上がり、身支度をして学校に行かなくてはならないのに、この白っぽい部屋の中に沈んでしまいたくて仕方がない。江神さんの腕に抱かれたまま日が暮れるまでぼんやりしていたい。

だけど、怠惰な私を刺すように、白っぽい部屋に金色の光が入り込んでくる。

太陽の光が、温もりが、早く目を覚ませと責める。見上げた江神さんの額に金色の光が当たって、ぼんやりと光っている。この幸せを、喜びを、いつまでも体中に感じていたいけど、朝日に背中を押された私は言ってしまうのだ。本心でもない事を、言ってしまうのだ。

「モチさんに本、返さないと」

まだ私の唇の先端で江神さんの舌がふらふらさ迷っている。唐突に私がそんな事を言ったものだから、江神さんはつまらなそうに私を見下ろして微かに鼻を鳴らした。不機嫌を装ってはいるけれど、何か意地悪な事でも言ってやろうと目が言っている。

「そうかそうか、そんなにモチが大事なんやな」
「大事です、って言ったらどうしますか」

意地悪には意地悪で返してやればいい。もちろんにやりと笑って言うのだから、本心でない事は明白だし、それでなくても私が江神さんにべた惚れしている事は今に始まった事じゃない。けれど、私の腕を引いてベッドに腰を下ろした江神さんにそのまま抱きすくめられる。

「それは許さんな」

そう言うと、ころりと倒れる。片手で腕を引かれて、私も倒れる。

「さっきのは嘘です、言うまで離してやらん」
「嘘ですよ、解ってるでしょう?」
「それはどうかな」

江神さんはまた意地悪を言う。にやにやと笑いながら、キス……をしそうでしない。あと数センチの距離で触れられるのに、からかうように寸止めをしている。意地悪だな、本当に。私の方から吸い付いていこうものなら、江神さんの思う壺だ。でも、すっと江神さんの目に影が差す。急に真剣な顔になった。

「2人でいる時に、他の男の話なんかするな」

他の男って言ってもモチさんですよ、なんて笑いながら言える表情ではなかった。これは誘導尋問だろうかと少し疑ってもいる。だけど、やっぱり私は江神さんにべた惚れなのだからして、真剣な眼差しでこんな事を言われてしまっては完敗という他ない。くやしいけど、どうにもならない。

あくまでもさりげなく唇を合わせたつもりだったけど、あっという間に息が切れるほどの激しいキスになってしまって、朝から何やってんの、と自分に突っ込みたくなる。白っぽい部屋はもうとっくに柔らかなオレンジ色に染まっているというのに、私たちだけが未だ夜に取り残されているみたいだ。

朝なのにな、そろそろ支度しなきゃいけないのにな、そう思っているのに、首筋に移動してきた江神さんの唇に何も言えずにいる。私がストップをかけなかったら、きっとこのままずるずると繋がってしまい、やっぱり学校なんか行かないで終わってしまうような気がする。それはだめだと解っているのに。

だから一応聞いてみる。

「江神さん……あの、朝、ですよ」

江神さんは顔を上げてきょとんとしている。私はおかしな事は言っていないぞ。

「だから?」

だから、って。スイッチ、入っちゃったのかな。

「ええと、朝っぱらからというのはちょっと、と思うんですが」

ぼそぼそと言ってみるけれど、江神さんは私の言葉など意に介さないようで。そりゃあ私だって今日が休みで、モチさんに何の用もなくてというなら、なし崩しになってしまっても、まあ、悪くない。昨晩も十分に愛し合ったじゃないか、なんていう冷たい事は言わない……と思う。

自信過剰かもしれないが、こんな風に求められる事自体が愛されている証拠と思っているから、本当はものすごく嬉しいのだ。江神さんは絶対に言わないだろうが、私の事が大好きで大好きで仕方ないからだと、そう思っているから泣き出したくらいに嬉しいのだ。事実とは違っていても、構わない。

この世界中に散らばっている幸せを全部集めても、きっと届かないくらいの喜びを私は感じている。そんな大袈裟な表現がするりと出てくるくらいに、私の身体は喜びに満ち満ちている。そんな実体のない泡沫の感情だけに浸って生きていられたらどんなにいいだろうと思う。

江神さんも同じように思っているかどうかは解らない。いやたぶん、そんな事は思っていないだろう。愛されているという感触はあっても、そんな思いつめたような気持ちは持っていないと思う。この点については私が一方的に視野が狭くなっているだけの話。それは、いい。

ただこの甘すぎる朝に理性を保てそうにない自分が情けないだけ。

……学校行って、帰ってきてからじゃだめですか」

もうこれが精一杯の抵抗だ。

「私もこうやっていたいです。でも、その」

言葉が出てこない。持て余すほどの喜びを抱えて、それを拒否しようとするなんて、なんて自虐的なのだろうと自分でも思う。しっかりと理性が働いているからだなどというのは下らない理由だ。求められているという事、求めているという事、双方の間に理性なんてものが介入してくるのは実に不毛な事だ。

そんな風に私が戸惑っている事に江神さんが気付いたらしい。苦笑いをしている。

「殺生な事を言うてくれるなあ」
「ご、ごめんなさい」

ふんわりと頬に落ちてくる江神さんの唇に、胸が痛い。

「仕方ない、我慢しよう」

くすくす笑う吐息混じりの囁きに、私は息苦しさを覚える。こんな事、言わせたくないのに。繰り返し謝っても気まずいだけだと何も言えない私は、江神さんの言葉に救われる。

「さっさと全部片付けてくるか。……続きを楽しみにしてるからな」

パッと火を散らしたように頬が熱くなる。そんな露骨な言い方はしないでと言いたかったけど、しょうがない、私もそれについては同感だった。今この時に限って言えばどうでもいい事をさっさと片付けて、また帰って来よう。

金色の光が色を変えて夜に消えていく頃、私は今度こそ喜びに浸るのだ。

「覚悟しとけよ」

私の行き過ぎた想いなど知らずに、江神さんが最大級のにやにや笑いを浮かべて言う。

そんなの、望むところよ。

END