夢想の情景

ラウンジの指定席に腰を下ろし、窓の外をぼんやり眺めながらはぽつりと言う。

「そういえば私、京都の桜見た事ないんですよね」

今は桜の季節でもなんでもなく、むしろ雪が降り出しそうな曇った寒空がどんよりと重い。天気予報では降水確率60パーセント、夕方から夜にかけて雪になる可能性もあるとの事。舞い散る桜どころか、身を凍らす白い雪が降るかもしれない。

そこから桜を連想したのかどうかは解らないが、そんなの言葉にアリスと2回生コンビは雑談を止めた。

「こっちに来たのは3月やろ。見れなかったんか」
「うん、入学式ギリギリまで実家にいたし」

英都大学に合格が決まってすぐにアパートを手配し、引越しだけは3月中に済ませていただが、単独で早々に乗り込んでもする事があるわけでなし、入学式の2日前まで関東の実家にいたそうだ。アリスはそんな説明を聞いてふうん、と頷いた。

「入学式の頃って桜、残ってなかったか?」
「なんかバタバタしててさ。よく覚えてない」

同じく記憶にはない様子の織田が問うものの、同様にアリスも望月も覚えてなかった。2回生の2人は既に2度目の春であるから花見もしたのだろうが、さて入学式となると記憶は朧気だ。アリスにしても至っては隣接する都道府県の桜なら別段珍しいものでもない。

「関東にいるとね、それはもう京都の桜なんて大変なものなのよ」

関東に限らず日本には腐るほど桜の名所はあるが、千年の古都京都の桜はまた次元が違う。しかも、桜の季節が近付くとテレビのCMやら電車の中刷りやらは手招くように京の桜へと誘う。そんな誘惑に駆られた観光客でごった返していて、広告のような桜を拝めるわけではないのだが、それはそれ。

「どこもきれいなんでしょうけど……どこがいいのかな」

京都の桜を見たくても、民家の庭先の桜でもいいかと言えばもちろん違う。京都ならではの名所で桜を拝みたいのだろうが、はそんな目的で町を眺めた事はなかったらしい。生まれはともかく、関西に生きるという事では先達である3人に向かって首を傾げて見せた。

そんなの頭に、ポンと音を立てて丸めたレポート用紙が落ちた。

「目の前にあるやろうが」
「江神さん」

4人に少し遅れてラウンジへとやって来た部長は丸めたレポート用紙を戻し、の隣に腰を下ろした。

「京都御苑」
「ま、そうですよね」

ぽかんとしていたに一言付け加えて、江神は煙草に火を点ける。しかし一体どこから話を聞いていたのか。望月が言うまでもないという風に肩をすくめてみせるが、はそれで終わる気がないようだ。

「桜吹雪、見られますか」
「遠山の金さんでも借りて来い」
「モチさんには聞いてません」

望月の意地悪など慣れた様子でかわすに、江神は苦笑した。

「どうやろうな、サトザクラがあるから見られん事はないやろうけど」
がイメージしてるのはソメイヨシノの散るところやろう」
「そんなら府立植物園とかどうや」

は先輩たちの親切なアドバイスに耳を傾けている様子だったが、まじめな顔でふざけた事を言い出した。

「ユーミンの……『春よ、来い』みたいなのは見られないんですかね?」

が言っているのは松任谷由実の「春よ、来い」のプロモーションビデオの事だ。信じられないものを見るような目つきで見返されても、は至って真剣な様子だ。

「あのな、。あれはほとんど本物の桜やないと思うんやけど?」
「うーん、だめですか。ああいうの、一生に一度でいいから見てみたいんですけど」

当然の事を確かめる望月にもは腕組みをして唸った。雨のように降り注ぐ桜の花びら、そんな景色の中に埋もれてみたいと思うのは桜の国日本に生まれ住む者なら不自然な事ではない。だが、そんな美しい世界を1人ないしは少人数で独占するのは不可能だ。

「ま、まあ、せめて花見には行こう」
「そうそう、暖かくなったら花見酒といこうやないか」

真剣な顔で腕組みをするから逃げるようにアリスと織田が立ち上がる。彼らにとっては都合のいい事にアリスと2回生コンビはこれから講義だ。適当にまとめるというよりは、やってきたばかりの江神に押し付けてしまおうというのだろう。望月も立ち上がる。

そそくさとラウンジから出て行ってしまった3人を見送りながら、は江神に問いかける。

「私、変な事言いましたか?」
「いや、ええんやないの。そういう夢も」

そう言いながらも江神は煙を吐き出しつつ、やっぱり苦笑いをしている。

「叶うわけないのにって言いたそうですね」
「そうは言うてないよ。まあ、果てしなく難しいとは思うけどな」
「みんな夢がないんだなあ」

優しく相手をしてくれる江神にもは口を尖らせてそっぽを向いた。

窓の外は見るからに冷たそうな風が木立を揺らしている。手が届きそうなほどに低く空を覆う雲が暗さを増して、そしてとうとう白い綿のような雪を吐き出し始めた。暖かいラウンジの中はにわかに騒がしくなる。傘を忘れただの、バイクで来てしまっただのとそこここで嘆く声が聞こえる。

「桜どころか……雪になっちゃいましたね」
「ずいぶん粒が大きいな。雨にならんかったら積もるかもしれんな」

と並んで座っていた江神も窓の方へ身体を捻って外を見ている。きっと講義へ向かった3人も窓の外にちらつく綿帽子のような雪に目を奪われているに違いない。

は暖かいラウンジの中にいるというのに、寒気を感じて身体を震わせた。今、空から舞い落ちるのが雪でなくて桜であったなら、すぐに飛び出して行って身体中でそれを感じるのに。そんな風に思っての事だが、雪の中へ飛び出していくという事まで想像して寒くなってしまった。

寒気に縮まったの背中が、突然ほんわりと暖かくなる。何事かと後ろを振り返ったは、間近に迫っていた江神の顔に驚いてびくりと身じろぎする。背中が暖かいのは、江神の身体に包まれているからだった。

「あ、あの……
「この寒さやと、桜の代わりにはならんみたいやな」

おそらく誰も注視してなどいないのだろうが、それでもはどぎまぎしてうろたえた。

そんなの動揺を知ってか知らずか、江神はするりと手を伸ばす。いくあてもなく引きつるの手をそっと包んでしまう。背中に、手に、江神の体温がゆっくりと移って――もちろん緊張も手伝って――の寒気は薄らいでいく。

、こんな雪のような桜は無理かもしれんけど」

背後からの囁きには一層身を縮め、しかし全身を耳にして江神の言葉を聞く。

「春になったら桜吹雪、探しに行こう。京都中回ってでも、桜の雨を見に行こう」

その言葉には小さく、けれどしっかりと頷く。この寒い冬を乗り越えて暖かくなったら、満開の桜もちゃんと堪能して、それも過ぎ行く頃に、探しに行くのだ。勢いを増して降り続けるこの雪のように止め処ない桜の雨を。

「はい」

願わくは、ただ江神と2人きりで。

END