灯りを消して

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「いくらなんでもお前の考えてるような事はやらんぞ」

江神のくつくついう笑い声が、耳をくすぐる。それでも江神は腕を突っ張って身体を浮かせると、静かに唇を押し当てた。確かにこの程度なら酔っ払い達の睡眠を妨げる事はあるまい。のんびり、といった風に唇を吸い上げられている内に、の燃え盛る動揺も鎮火していく。

今は半分以上身体が重なっているから、の布団の上でも難なく横になっていられる。しかし少しばかり重なり合っていたとしても、布団をかけてしまえば確実にどちらかがはみ出す。このままごろりと横になって、お喋りをして、そしていつしか眠りに落ちられれば言う事はないのに。江神はそれを悔やんだ。こたつの足と自分の身体の間にを挟んでしまえば、誰が夜中に目を覚まそうとも何も手出しできないはずだから。

それが叶わない事に歯噛みしてもどうしようもない事は解っている。気にし過ぎだとは言うかもしれない。それでも江神は、押し倒しただけでパニックを起こしているを見下ろしていると不安に駆られてしまうのだ。は、こんなにも可愛いのだから。

「少し落ち着け、ちゃんと自分の場所に戻るから」

江神は眉尻を下げての髪を指で梳いた。絡ませた足が名残惜しい。

この数日間に起こった全ての事、これは本当に甘い試練だった。次から次へと2人を試すようにアクシデントが襲い掛かる。毎日すくすくと育っていく2人の想いを打ち砕こうとするように、牙を剥いて襲い掛かってくる。とどめの今夜は仲間が酔って眠る部屋で、素面のまま眠らねばならない。

今すぐに1つになってしまいたいほど愛しい身体が目の前にあるのに、少なくとも江神はそんな状況を作らないように決めたばかりだったのに、いたずらな運命は虎視眈々と2人を狙って罠を仕掛ける。

衝動的に暴走した、それに抗えずに受け入れた江神。それはまるきり予定外で、あまりにも突発的な出来事で、どちらにしても偶発的に成立した関係。時間が過ぎていくに連れて大きくなっていく気持ちは本当に自分のものか? 相手の言葉に嘘はないか? それを常に問われているような、そんな数日だった。

その中で、は涙を流し、江神は迷わされた。次々に自分を見舞うアクシデントに倦んで、投げ出す事も出来た。それでも自分の気持ちも相手の言葉も本物だと信じたから、2人はこうしてもどかしい時を過ごしている。

だからもう、じたばたしないで、抗うのはやめよう。そんな罠にかかって身を滅ぼせばどこかで誰かが嗤うだけだ。巧妙に仕掛けられた罠にいきり立つ事はせず、流れる水のように全てを受け入れよう。いつか誰かがいたずらに飽きるまで、そうしていよう。

もう、夜を迎え入れよう。灯りを消して静かに横たわり、身体も心も休めよう。

仰向けになったままのを残して江神は立ち上がり、部屋の灯りを落とした。スタンドライトのオレンジ色の光がの顔を穏やかに照らす。自分用に用意した位置へと江神が戻ると、は身を返して音楽をかけた。甘ったるい、舌足らずな女性の歌声がスピーカーから流れ出す。

「おお、シンディ・ローパーか。ええな」
「お好きですか?」
「好きいうほどでもないけどな。好きなものかけといてええよ」

江神はこたつに足を突っ込むと、望月が伸ばしていたらしい足を蹴る。はその様子に笑いながら布団を被り、こたつの足に腹を押し付けるようにして江神ににじり寄る。アリスに譲ってもらった毛布を掛けた江神も、こたつの足を挟んでいるだけの距離までずれてから横になった。

オレンジ色のささやかな灯りが照らすだけの暗い部屋で、2人は向き合う。どちらからともなく、枕をぴったり隣り合わせる。2人を切り離しているものは、こたつの足と、仲間たちの寝息、そして、お互いを大切に思うからこそ棘の立たぬように撫で付けた理性だけ。

吐息がかかるほどの距離にいる愛しい者とは、やはり愛しい者達の眠りに妨げられて繋がる事は叶わない。それでも、2人はお互いを愛しむ事はやめないだろうし、何も知らずに眠っている酔っ払い達を愛する事もやめないだろう。こんな状況に追い込まれてなお、止める事の出来ない衝動とも言える思い。

「江神さん、私、やっぱりEMCが好きです」

は囁き、布団に埋もれていた手を差し出す。江神はその手を受け取り、しっかりと包む。

「そうやな、俺もの次に好きや」

江神はわざとらしくにやついて返す。私だって、と反論しかけたの手を引き、繋いでいない方の手を布団に滑り込ませて背中を抱いた。繋いだ手を口元まで引き寄せて、の指に唇を寄せる。もうは焦ったりしなかった。眠くないでしょうと言っていたのが嘘のようにとろんとした目をして、江神を見つめている。

「明日、お説教するんですか」
「自業自得やからな」
「私、もうあんまり気にしてないんですけど」
「俺の気が済まん」
「ほどほどにしてあげて下さいね」

どれくらい、そんな風にして言葉を交わしていただろう。お互いにしか聞こえないほどの小さな声で2人は話し、くすくすと笑い、手を繋ぎ身を寄せ合っていた。織田のいびきが響く、望月がむにゃむにゃ言う、アリスが寝返りを打つ。まったく珍奇な状況もあったものだ。

この中に誰か1人でもこっそり目を覚ました者がいたら、心を解き放ってゆるりと横たわる江神とが、こんな状況にあるのにいちゃついていると思うだろう。それは短慮だ。2人はもう、仲間に囲まれながら初めて共に夜を明かすという試練を受け入れている。それはきっと、2人の世界を象る色なのだと思うから。

は自分を取り巻く全てが愛しかった。しかしそれを表現する術は解らない。だから、言う。

……二郎さん」

何の脈絡もなく意味もなく、は江神の〝名〟を呼んだ。

そういった瞬間の江神の目を、は決して忘れないだろう。夜空に瞬く星を忘れないと誓った江神のように、ずっと忘れずにいようと心に刻む。

何かを堰き止めているものがなかったら、泣き出してしまいそうに見える目。驚いて小さく息を呑んだ、少しだけ開いた唇。次第にきつくなる、の手を握り締める指。名前を呼んでもくれないと遠い目をしたあの日が嘘のように、枕に沈んでいた顔はゆっくりと笑顔になっていく。

音も立てずに、江神の頭が枕を離れる。繋いだ手は江神の胸元に引き寄せられて、真横を向いていたは顔を上向きにする。ふわりと降りてきた江神の唇を、はすんなり受け入れた。キスをするのに目が回るほどの緊張が伴ったのは、そう遠い過去の事ではない。だが今は、身体中でそれを自然に迎え入れている。

、もう1回、言うてくれないか」
……二郎さん。二郎さん、二郎さん」

はにかみながらも、は愛しい者の名を呼ぶ。その度にくすぐったそうに困り顔をする江神が、どうしようもなく愛しかった。夜が明けたなら、また「江神さん」と呼ぶべき状況に戻っているから、今はせめて。

その事をもちろん江神も解っているから、自分の名を繰り返すの声に酔いしれる。

2人を待つ未来がどんなに重く苦しいものであっても、今はこうして憩っていられる。身体中に広がる愛しさと、暖かさ、幸せに甘く胸を刺す僅かな痛みはいつか絆に変わるだろう。願うとおりに素肌を重ねる夜も訪れるだろう。そんな時を、2人は仲間に囲まれて笑いながら待つ事だろう。

本物ではなかったとしても、嘘ではない。想い合う心は、揺るがない。

繰り返しお互いの名を呼びながら、2人は愛しい者達を背中に眠りに落ちた。

END
Episode of extra.