死せる心の果て

10

閉じた傘を手に輪になっている4人、その手前で背を向けている江神に向かっては声をかけた。肩に垂れる長い髪が揺れて、江神が振り返る。アリスも、望月も織田も、同じように声のした方に顔を向ける。

しかし、誰も少し距離を置いたに気付かないようで、また輪の中心に向き直ってしまった。

雨上がりの空の下で、はふわりと微笑む。気付かないのも、無理はない。もう1度呼びかける。

「ここです。ご無沙汰してます」

今度こそ、全員がと判った。輪が崩れ、一斉に息をのんで驚愕の表情を浮かべる。

は、すっぴんで、しかも着ている服は安物だった。

化粧もしていないは、ジーンズにセーターを重ね、丈の長いジャンパーによれたマフラーを巻いている。髪はざっくりと纏められ、飾り気のない黒のゴムで止めてあるに過ぎない。バッグもひしゃげているし、靴に至っては汚れのついたスニーカーだった。

雨が上がり、雲の切れ間から差す陽の光が作るスポットライトの中では素顔ではにかんでいる。

「ずっと、連絡しなくてごめんなさい」

そう言っては俯いた。4人はやはりこのの様子に驚きすぎて、言葉もない。アリスに至っては、の姿を確かめようと身体を斜めに傾けたまま、硬直している。

見るからに高価そうなスーツに身を包み、きらきらと輝くアクセサリーに彩られ、常に上から物を言うような態度だったは、江神達4人を前に少しだけ距離を置き、素顔を俯かせている。きっちりと塗りこまれたメイクのないは、きれいな肌と柔らかい曲線を持つ目がとても可愛らしい女の子だった。

距離を縮める事も忘れて、双方はそのままの位置で静止していた。やがて、江神が口火を切る。きちんと身体をの方へ向けて、少しだけ考えてから言う。

、雨、ずいぶん長かったな」

雨、それはの上に容赦なく降り注ぎ続けた苦しい現実、痛む心、死にゆく過去の自分。その江神の言葉にアリスは目を閉じ、は俯いたまま微かに頷く。

「けどもう、すっかり晴れたな」

言うなり、江神はにっこりと微笑んだ。それを見るまでもなく、俯いたままのは嗚咽を漏らして泣き出した。つい、の元へと駆け出しそうになったアリスを、織田の手が止める。迎えに行くべきではない。真逆の世界と戦い続けたの行く末は、が決めればいい。

はぐいと目元を擦りあげると、必死に顔を上げようとしながら話し出す。

「私、あの時、江神さんに、一目惚れしました。理由なんかないです。でもそれを認めたくありませんでした。私は人とは違うんだって、人より優れてるんだって、だからそんな事は何かの間違いだと思いました。
私は東京生まれ東京育ちのセレブだと思ってて、そうじゃないもの全部、見下してました」

上ずるの声が、学生会館の辺りを行き交う学生たちの足を止める。中には、普通の格好で泣きながら何か喋っている女の子が、あの高飛車東京女だと気付いて驚いている者もいる。

「でも、もう無理でした。そういう私は死にそうになっていて、それまで素晴らしいと思っていたもの全部捨てても江神さん達に近付きたかったです。でもまだ私はわけわかんない事を言ってました。でもアリスは友達になってくれました。江神さんとモチさんと信長さんもいっぱいお喋りしてくれました。嬉しかったです。
だから、どうしてもみんなと同じになりたかった。それで、バイトしてみました。バイト、きつかったです。家族にバレないように学校行きながらバイトするのは大変でした。でも、辛くなかったです。ずっとバカにしてたパートのおばちゃんは優しかったです。
それで、この間、お給料、もらいました。いっぱい働いたと思ってたけど、5万円くらいでした。昔私が使ってたバッグも買えません。
バイトに必要にものは全部お給料から出そうと思ってました。使った分は後でバイト代から戻そうと思ってました。そしたら、殆ど残りませんでした。出来るだけ安いものを買ったつもりでした。だけど、もう殆ど残ってないです。化粧品も欲しかったけど、日焼け止めくらいしか買えませんでした。
今日着てるのは、自分で稼いだお金で買った服です。化粧品も買えなかったから、メイクもしてません」

ようやくしっかりと上げたの顔は涙に濡れていて、目も鼻も真っ赤だ。しかし、涙の伝う素肌は涙に洗われてとてもきれいだった。泣きじゃくるその表情はまるで赤子のようで、可愛い。

「こんな格好でいたから、今日の朝、とうとう家族にバレました。恥ずかしいとか、みっともないとか言われました。ママに叩かれました。だけど、私は、これでいいと思ったんです。おかしいのは昔の私で、今の私はおかしくないと思いました。
私、今の自分の方が、好きです。
それは、そんな風になれたのは、江神さんと、アリスと、モチさんと、信長さんのおかげです」

そしては、泣き顔のまま身体を2つに折り、膝につくのではないかというほどに頭を下げて叫んだ。

「ありがとうございました!」

その声に、まばらなギャラリーの中にいた女の子が泣き出した。が覚えているはずもないが、入学式での隣に座り、きついフレグランスの香りに具合を悪くして途中退席した女の子だった。あの日の香水臭い女の子が普通の格好で泣きながら頭を下げている。その声に胸を締め付けられたのだ。

頭を下げているが顔を上げた時、そこには優しく微笑んでいる江神がいた。すぐ傍らにはアリスがいて、望月と織田もすぐ近くでを見下ろしている。江神の手が伸びて来て、の頭に触れた。そして、戸惑うの頭を撫でた。泣き止まぬ子供をあやすように、ゆっくりと撫でた。

「俺らは何もしてへんよ。これは、お前が自分で掴み取ったもんやろう」

そう言いながら、江神はの頭を撫で続けた。再度溢れ出した涙を拭うのに忙しいの背中を、アリスがそっと擦ってくれる。望月は、くしゃくしゃのハンカチを貸してくれた。

「勝ったな、。色んなもんに全部勝ったな」
「アリ、ス、ありがと、う」
「そんなに泣くなよ。僕だけやのうて、友達たくさん出来るよ、大丈夫」

しゃくり上げながら何度も頷くの頭に手を置いたままの江神が、屈みこんでにんまりと笑っている。真っ赤なの目を覗き込んで、いたずらっぽく首を傾げ、内緒話をするように声を潜めて言った。

「しかし、こんな衆人環視の中で告白とは恐れ入るな、ちっとも知らんかったよ」
「そんなん気付いてないの江神さんだけですよ」

同じく屈みこんで口を挟んできた望月が江神に人差し指を突き付けた。織田がブホッと勢いよく吹き出し、江神は新たな事実にちょっとだけ口を尖らせる。もアリスも、笑った。

「なんなんやお前ら。知らんのは俺だけか」
「でも、その答えを知ってるのは江神さんだけやないですか」

をフォローするつもりで言ったアリスの言葉に、当のは慌てた。取り繕うつもりはないが、告白などはおまけのようなもので、言ってみればついでだ。もちろん江神を想う事に変わりはないが、それも今スタートに立ったばかりなのだ。返事を要求するつもりはない。

「あの、そんな事はいいんです。私が勝手に……

はおろおろしながら江神とアリスを交互に見ていたが、それを遮って江神はきっぱりと言う。

「そんな事やあるか。即答はしてやれんが、ちゃんと考える。それでええか?」

当然に異論はない。ただでさえ真っ赤な目と鼻だけでなく、頬も赤く染めて頷いた。

「そしたらいい加減、このこっ恥ずかしい状況から逃げよか」
「昼飯、どこにしましょうねえ」
「あの、私、3000円しかないんです」

さらりと言っただったが、その言葉に4人は声を上げて笑った。

アリスがの背中を叩く。「僕も全財産2600円や!」
「なんや貧乏人が! 俺は4000円あるぞ!」織田がふんぞり返った。
「おいおい、お前らどうしようもないな、俺は500円玉が5枚もあるんやぞ」望月がバッグを叩く。

その様子をにこにこしながら見ていた江神に、締めのオチを要求するかのような後輩たちの視線が突き刺さる。

「なんや、そんな顔してもオチないぞ。俺はまだバイト代入らんからな。全財産1500円や!」
「あかん! 最年長が最安値や!」

望月の突っ込みのおまけまでついて、ちゃんとオチた。少し照れくさそうな江神の言葉に、は声高らかに笑った。アリスと肩をぶつけ合いながら、笑った。京都に越して来て以来、心の底から笑ったのは、これが初めてだった。

そそくさとキャンパスを逃げ出した達は、織田の勧めでラーメンを食べに行く事になった。ラーメンなら、最安値を記録してしまった江神の財布でも問題ない。ラーメン屋に向かう道すがら、はアリスのお節介で江神に手を繋いでもらえる事になった。

江神は「今日は特別な」と言っての手を取ると、きょとんとした顔で問いかけた。

「ところで、まだ候補生続けるつもりか?」

その後、はめでたく候補生を卒業し、晴れてEMCの一員になった。

家族にバレた事でスーパーのアルバイトは辞めざるを得なくなってしまったが、望月のアドバイスで家庭教師を始めた。中学生の女の子を教えているらしく、おしゃれにも詳しい先生はとても懐かれているようだ。稼ぎの全ては、江神達に勧められるままに買う書籍に充てられている。年明けには100冊を突破した。

学生会館での一件からしばらく後、に待望の女の子の友達が出来た。同い年で、絵に描いたように清楚で美しい女の子だったが、無類のハードロック好きだった。彼女と会う事になると、なぜかアリスもくっついて来るので、女の子同士で遊びたいはそれが少し面白くない。

織田のバイクに興味を持ち、バイクを買う予定こそないものの、とりあえず原付の免許を取った。休みの日には、たまに織田のつてで借りたスクーターに乗って練習している。織田教官の指導のたまものか、江神やアリス、望月が見守る中ではスクーターでウィリーを達成した。もちろん、直後に転倒した。

江神からの返事は未だ返らないままであるが、月に1度くらいなら2人でどこかへ遊びに行く事を承諾してもらえるようになった。食事だけという事もあるが、それでもは充分満足だった。

白く真新しい墓標とした自宅では未だに親子喧嘩が絶えないようだが、少なくとも父親の方は理解を示してくれるようになった。そんな日々の中にあって、は毎日元気に学生生活を送っている。今は静かに眠る過去の自分を悼み、常に戒めとする事もやぶさかではない。

今日もは、晴れた空の下を歩いている。

END