死せる心の果て

09

深まる秋の空も、死にゆく過去の同様、冬の冷たさにのまれようとしている頃。

はある決意を持ってパソコンに噛り付いていた。タッチパッドの上で忙しなく指を動かし、スクロールされていく画面を目がきょろきょろと追う。その傍らには、フリーペーパーや雑誌が何冊も積まれている。

は、アルバイトを始めるつもりだった。

遡る事数日前、アリスと2人きりになったのを見計らって、は唐突に切り出した。

「あのさ、バイトって、どうやってすればいいの」
「はい?」

講義のある望月と織田は不在で、江神は煙草を買いに出かけたところだ。突然そんな事を言い出したに、アリスは目を剥いた。色々突っ込みたいところはあるが、とりあえず手始めに動機を尋ねてみる。

「バイトする必要、ないんちゃうんか」
「ええと、まあ……それはそうなんだけど」

しかし、どうにも居心地悪そうにもじもじしているを見ていると、憐憫の情を禁じえない。

「バイトした事、ないんか」
「うん」

厳密に言えば、高校生の頃に、父親の口利きでモデルの仕事をした事がある。モデルと言っても、父親の友人が持っていた会社のパンフレットに添える写真に載っただけだが、せめてアルバイトと言える経験はその程度だった。しかも、報酬は父親から5万。アルバイトと定義するには、あまりにもその範囲を逸脱している。

「そうか、そんなら、とりあえずどんなバイトがあるのか、探してみたらどうや」
「雑誌とか見てみればいいの?」
「ネットでも探せる。それからの細かい事はまた教えたるから、まずは見てみ」

は子供のようにうんうんと頷き、江神が戻るのも待たずに帰っていってしまった。煙草を片手に帰った江神は、アリスが1人取り残されているのを見ると、不思議そうな顔で首筋を掻いた。

、帰ってもうたんか?」

しばらく候補生をやっている間に、アリスだけでなく、江神たちも「」と呼ぶようになっていた。

「あー……それがですねえ、実は」

ぼそぼそと説明するアリスに、江神はただ開けたばかりの煙草のパッケージを弄びながら、煙を吐いている。

「なんだか、可哀想です。裕福な家で可愛がられて育った子なんやろうに」
「お前が気に病む事やないよ、それもの選んだ道なんやろうから、気になるなら助けてやり」
「いえ別に好きとかではないんですが、こう、見てて痛々しくてですね」
「だからや。最初っから痛々しい子やったろう? どうにかしとうて、もがいてるんと違うか」

こっくりと頷いてアリスはため息をついた。の江神への思慕はさておき、江神はの現状をよく理解しているらしい。聞けば、救急車で搬送された病院にて、は江神の言葉にどうしようもなく胸を打たれて号泣したという話だ。

は一目惚れをしたという。言葉もろくに交わさなかった江神に、一瞬で惚れたのだという。

のんびりと煙草を咥える江神をちらりと見て、アリスはもう一度ため息をつく。

この人は、そういう魅力を持っている。まるで、神か悪魔のように。

アルバイト素人にありがちな事だが、パソコンに噛り付いた末には高給を基準にしてナイトワークやガテン系の求人をピックアップして来た。アリスは呆れて、しかし粘り強く諭した。ガテン系などとてもには無理だし、ナイトワークなどはもっての外。高望みせずに、学業と両立できる範囲で探せと言い続けた。

アルバイト指南をしてやるのは構わないが、適当な事を教えて、どうも曲者らしいの家族に恨まれるのは御免だ。同じ大学の有栖川に聞いたなどとが漏らそうものなら、どんな目に遭うかわからない。

そんなアリスの丁寧な指導のおかげか、はようやく近所のコンビニとスーパーのレジ、それにファストフード店の求人3つに絞り込んだ。どれも急募ではなく、常に求人を出している状態。しかも高校生になったばかりの女の子が初めてアルバイトをする定番どころ。ようやく次のステップだ。

「この中で言えば……そうやな、コンビニとファストフードは覚える事が多いぞ」
「え? コンビニとファストフードが?」
「どっちも大手チェーンやし、いわゆるマニュアル接客や。分厚いマニュアルが待ってるぞ」

その点、スーパーは有限会社で規模も小さい。時給は低いが、求人を見ると、レジと品出しは分かれている。レジの操作が基本で、そのほかの業務は少なそうだ。アリスはスーパーのレジを推した。無論、個人の経営するスーパーという環境的にには厳しいという事は承知の上だ。

実を言えば、は成績優秀なのだから、望月のように家庭教師という安全牌を勧めてもよかった。しかしアリスは敢えてその選択を捨てた。は金を稼ぎたいわけではなくて、ただアリス達がやっているような〝労働〟がどんなものなのかを知りたがっているだけだ。ぬるま湯に浸けてやる必要はない。

「どっちに転んでも楽言う事はないし、それなら覚える事が少ない方がええやろ」
「うん……よくわからないけど」

本当によく解っていないらしい。履歴書の書き方すらも解らない。面接でどんな事を聞かれるのか、とか、もし受かったらどんな服装で行けばいいのか、など、アリスは基本的な質問に追われ、がスーパーのレジ係アルバイトの面接を取り付けてきた頃にはへとへとになっていた。

「面接についてはこの間言った通り。まあ、元々言葉は丁寧すぎるくらいやったし、大丈夫やろ」
「う、うん、頑張る。ありがとアリス」

大学からの帰り道にあるというそのスーパーでの面接は今日。ラウンジのテーブルで神妙な顔つきで頷くに、アリスは最後のアドバイスをする。面接までこぎつけるのもやっとだったが、それはアルバイトではない。採用されてからが本当のアルバイトなのだ。それについて、に言っておきたい事があった。

、スーパーのバイトなんて、お前には屈辱かもしれん。人間扱いされてないとか、思うかもしれん。のパパより稼ぎの少ないオッサンに怒鳴られたり、馬鹿にされたりするかもしれへん。でも、元々この年までバイト未経験でも不自由ない生活しとったんや。だめやったらすぐに辞めてもええよ。だけど、昔のお前が見下していた世界がどんなところなのか、しっかり見ておいで」

同い年のはずのアリスは、まるで江神がにアルバイトの何たるかを説くようにゆっくり話した。

アルバイト未経験のを脅かしたいわけではなくて、そんな事態もあり得るのだという前提の下に、金を稼ぐ以外の理由を見失わないで欲しかったのだ。それを忘れて飛び込んだ先で、手痛い仕打ちを受けた時、は過去の自分を取り戻す事になるだろう。

江神への恋心を抱いたまま再び「庶民ごとき」を蔑むようになり、出口の見えない煩悶の中に陥って今度こそ本当に壊れてしまうだろう。それではあまりに可哀想だ。

そんなアリスの言葉に、はただ黙って頷き、「いってきます」とだけ言ってラウンジを出た。

アリスと別れたは、面接の時間を確認しながら歩いていた。その時、前方から歩いてくる江神に気付いて足を止めた。これからラウンジへ行くのだろうか。そろそろすれ違うかという頃になって、江神の方も足を止める。

「よう、帰るんか?」
「はい、あの、面、面接です」

おそらくアリスから事のあらましは聞いているのだろう、江神はそれについては特に反応を見せなかった。だが、ゆっくりとの肩に触れ、力を込めると、にしか聞こえないくらいの声で、言った。

「もう、頑張るんやないぞ」

そして、撫で下ろすようにしての肩から手を離すと、振り返りもせずにすれ違って行った。

江神の手が肩に触れた瞬間、確かには呼吸を忘れた。その間にも体中を流れる血液がドクドクと脈打ち、耳に響いた。そんな硬直状態は、江神の手が離れた瞬間に解ける。途端に呼吸が戻ったは、焦って酸素を取り込もうとする唇をギュッと結び、目を閉じてその場に立ち尽くした。

肩に残る江神の手の温度が上昇していく。肩が熱い。耳も熱い。顔中が火を噴きそうだ。

そっと耳を通り過ぎていった江神の言葉も、何もかもが熱い。

もう頑張るなという江神の言葉、それは孤高の高飛車東京女であったにとうとう止めを刺した。の中から消えていくまいとしがみつき、現在のを誘惑し、思う通りにならないと喚き大暴れしていた過去のは、江神の言葉に断末魔の叫びを上げた。

長きに渡ってを苦しめた〝あいつ〟なる自己は、江神の言葉にその中心を打ち砕かれて消えていった。暮れゆく秋の空の下で、は深呼吸をする。生まれて初めて呼吸をしたかと思うほどに、その空気は鮮烈で、清々しい。

過去のは、死んだのだ。そして、跡形もなく消えた。

晴れ晴れとした表情で歩き出す。その日から、はEMCに顔を出さなくなった。

学生会館のラウンジにが顔を出さなくなってから1ヶ月。その間、と接触があったのはアリスと望月の2人だけ。面接の翌日、アリスに採用されたとメールが来て、それから10日ほど経った頃に、大荷物を抱えてキャンパスを走って出て行く姿を望月が見かけただけ。

「そんなにハードなバイトしとんのか?」

バイトと言えば常にハードな織田が首を捻る。

「いや、スーパーのレジです。簡単に出来るものを勧めたので、しんどいはずはないんですけど」
「アリスにもまったく連絡ないんか。初めてやというのに毎日シフト入れてしもうたんかな」

想像を巡らせる望月の向かいで、EMCが誇る名探偵江神は静かに紫煙を吐き出した。

「家族にバレんようにバイトするのは案外ハードなんやないか」
「え!? あいつ家に内緒でバイトしてんですか」
「そりゃそうでしょうモチさん……たぶんモチさんの見たっていう大荷物は着替えですよ」

アリスの推理も含めて、江神はの現状を推理してみる。

「シフトは……そうやな、できるだけランダムに入れるように頼んでるんやないか。講義が午後しかない日なんかは午前中に入れたりして。で、学校帰りでバイトだった場合は、朝まず家族に怪しまれんようにいつもの装いで家を出る。学校が終わると、どこかで着替えて髪を直してスーパー直行。上がったらもう一度着替えて髪を直して帰宅。帰宅が遅い理由についても、その度に理由が必要になってくる。ただでさえ慣れない事しとるんや、疲れて毎晩ぐっすりなんやないか」

この推理が正しければ、殆ど二重生活だ。

「それはそれで……えらくハードすね」
「無理しとらんといいですけどね」

心配しようにも、様子がわからないを案じてアリスと織田が腕組みをした。それを見た江神は吸い差しをもみ消すと、にっこりと笑って言う。

「心配いらんよ。はもう大丈夫や。生まれ変わってる」

そして12月のある日。日毎に寒さが増す中、前日から続いている雨のせいか普段よりは温かく、湿気た土曜日の事だった。雨は昼までに止むだろうという予報の中、傘をさした学生たちがキャンパスを歩いている。

その中に、はいた。

この日、特別な思いで大学へとやって来たは、黙々と歩いて教室へと向かい、講義に出席、いつも通り誰と言葉を交わすも事なく過ごした。そして、雨がほぼ上がりかけた空の下を、また黙々と歩く。思いついて開いた携帯には、昨晩届いたアリスからのメール。

もうずっと顔を見せないを案じて、今日のランチを一緒にどうかと誘っている。EMC全員揃うから、来られそうなら、昼前に学生会館の近くで待っていると結ばれていた。

そろそろ時間だった。は携帯を閉じると、学生会館へと足を向ける。

すぐにEMCの4人を見つけた。大好きな大好きな、EMCの4人だ。

毎日死にゆく過去の自分と戦いながら、ようやくが手に入れた愛すべき人達、愛すべき場所。どれだけ救われ、支えとなったか判らない。それに報いる事はまだ叶わなくとも、せめて同じ目線でありたかった。彼らと同じ世界が見たかった。そのために亡くした過去の自分になど、もう欠片ほどの未練もない。

雨粒を吹き飛ばすような一陣の風が吹き抜ける。

死せる心の果てに、は全てをさらけ出して、雨上がりの空の下で足を止める。

「お久しぶりです」