死せる心の果て

08

「ところで、どこで食べるんですか」
「いや、決めてない。近いから、リラでええんちゃうか?」

江神を先頭にした一行の最後尾を歩くが織田に聞くと、そう返ってきた。リラという店には行った事がない。この4人とランチが出来るならどこでもよかったのだが、はつい言ってしまった。

「ちょっと歩きますけど、いいところがありますよ! ランチコース5品で2480円、安くないですか?」

楽しそうなの言葉に、全員が振り返ってぎょっとしたように目を見開いた。その反応に、も同じ表情をした。何か変な事を言っただろうか、何でみんなはこんなにびっくりしているのだろうか。それとも、2480円のランチなんて、チープすぎて呆れられた?

おろおろし始めたのそばにアリスが近寄り、静かに言う。

「あんな、この間僕金欠でお茶奢てもろたやろ。2480円のランチは、ちょっと無理や」

2480円のランチが高い? そんなばかな。だってみんなバイトしてるんでしょう、バイトしてるならお金、すぐに入るんでしょう。そしたら2480円のランチなんて別に高くないじゃない。

その意味を考えるので精一杯でアルバイト経験もなく、さらに金銭感覚が根本的におかしいは、思った事を何も口にしなかった。口にしてしまっていたら、今度こそ全員に呆れられてしまったに違いない。バイトもせず読みたい本を際限なく買い、2480円のランチを安いと思うのは、学生にとっては常識ではない。

よく判らないが不用意な事を言ったと落ち込むに、先頭の江神が前を向いたまま声をかけた。

候補生、俺らはみんなそんなもんや。それでもいいなら、おいで」

突然江神に名を呼ばれたはまた身体をびくりと強張らせた。言葉の意味するところも、の心をチクチクと突付く。誰も「そんな金あるかアホ」とは言わない。けれど、と4人の間には金銭感覚という溝が広がっていた事は充分に解った。

そして江神の言葉も、には幾通りもの意味を孕んでいるように聞こえる。

お前とは違うんだ。お前が少しずれてるんだ。少なくとも、EMCではそうだ。それを忘れるな候補生。お前の常識でできてるわけじゃない。それが受け入れられないのなら、そういう俺たちを無理だと思うなら、そういう俺たちではだめなら、いなくなってもいいんだぞ。

しかしお前がそれでもいいと心を開くのなら、ここにいてもいい。俺たちは、それを拒否しない。

深読みと言われてしまえばそれまでだ。しかしは江神の言葉を分解し、捏ね回し、その真意を探ろうとして、またも過去の自分の存在を感じる。まだ、過去のは息絶えていないのだ。

まだいたの。まだいなくなってくれないの。

早く死んでよ、あんたなんかさっさと消えてよ、どうしたら死んでくれるのよ!

の不用意な発言のせいでどこかぎくしゃくしてしまったランチから数日。また臆病の虫が出て、はラウンジへ行きかねていた。キャンパス内のベンチでぼんやり本を広げていたが、読んでいない。

1冊1680円のハードカバー。当然それは親の金で購入したものだ。は開いた本を押さえていた手を見る。ジルコニアとはいえ、ジュエリーのびっしり嵌った腕時計。確か4万かそこらはしたはずだ。時計だけはきちんとしたものを、という父親が高校入学祝に買い与えたもので、そろそろ買い換えたいと思っていた。

腕時計の向こうに見えるのは、自分のつま先。通学用に歩きやすいものと選んだパンプス。確か、2万くらいした。毎日同じ靴は無理、とまとめて4足くらい買った。腕にかけたまま傍らにあるバッグ。通学のためにきちんとしたものを、と母親にねだったバッグ。30万くらいするもののはずだ。

ぼんやりと自分の装備品を眺めていたの上に影が落ちた。見上げると、アリスが立っていた。

「となり、ええか」

いつもの優しそうな笑顔のアリスではなかったが、意識が別の事に飛んだままのは、腰を浮かせて横にずれた。黙ったまま腰を下ろしたアリスは、背もたれに肩をつけて真正面を見ている。そのアリスを見るでもなく、はぼそぼそと呟いた。

「あのね、アリスくん。私、全身で、40万くらいかかってるの」
「うん、そうやろうな。僕はそういうのよう知らんのやけど、それは不思議やない」
「それでね、自分で働いたお金で買ったわけじゃないの」
「そうやね、学生やりながらそれは無理があるやんな」
「私、この間、すごく変な事言ったよね」

のその問いにアリスは答えなかった。その代わり、声だけは変わらず優しいままに、きっぱりと言った。

「なあ、……て呼ばせてもらうけどええな。、江神さんの事好きなんやろう」

その声はあまりに穏やかで、優しくて、柔らかくて、は驚く事も忘れてこっくりと頷いた。

「うん。好き」

の膝の上で開いたままの本のページが風にはためいて、音を立てる。風に髪をそよがせながら、その音が鳴り止むのを待って、アリスは続ける。

「それでそんなに変わってしもうたというわけか?」
「そうだよ」
「全身40万のままやったら、江神さんに振り向いてもらえんからか?」

アリスの問いかけは直球過ぎて、は返す言葉に迷った。でも、アリスは答えを急かすような素振りを見せなかったから、は充分に考えてから口を開いた。

「あのね、私、江神さんに会ってから、毎日少しずつ死んでいってるの」

その言葉にアリスは初めて表情を崩してを見たが、構わず続けた。

「アリスくんの言った通りなの。庶民ごときがアタクシに馴れ馴れしくしないで下さる? って思ってた。2480円のランチが高いとか言う人と喋るのも嫌だった。関西も嫌いだった。関西だけじゃなくて、日本中のどこでも、東京以外大嫌いだった。東京に帰りたくて仕方なかった。
でもね、江神さんに出会ったの。私が好きになるような人じゃないはずだったのに、気付いたら、好きになってた。あんな人好きなはずがないって、私に相応しくないって思っても無理だった。
夏休み、東京に行ったんだけど、どうしても江神さんの事ばかり考えちゃうの。それで、とうとう向こうのナンパな男を見て吐き気がするようになっちゃったの。向こうの友達にも呆れられて、それっきりメールもくれなくなった。でも、悲しいとか、思わなかった。
そうしてる間にも、私、毎日毎日ちょっとずつ死んでいって、今にも消えそうなの」

の言葉に耳を傾けているアリスは、膝に置いた手をギュッと握り締めている。

「だけど今でも〝そいつ〟は消えてくれなくて、私の中で『庶民ごときが』って言い続けてる。それを感じるたびに、早く消えてよって思ってる。もう少しなの。もう少しで〝あいつ〟は私の中からいなくなってくれると思うんだ。でも、〝あいつ〟が消えたら江神さんが私の事を好きになってくれるとは思ってない。
それはないよ、もちろん。
それに、私、江神さんが好きだっていう事とは別に、アリスくんたちと話が出来るのも嬉しくてさ。私、こっちに越してきてから友達、1人もいなくてさ。そりゃそうだよね。なんせ『庶民ごときが』だもん。おまけに東京の友達とも切れちゃって……友達、1人もいない」

は1度言葉を切ると、膝に広げていた本を閉じて胸に抱いた。

「江神さんの事が気になって、それでミステリ、読んでみたの。面白かった。そしたら、アリスくんたちとお話できるようになった。もちろんそこには江神さんもいて、遊びに来てもいいよって言ってくれる」

そんなの告白に堪りかねたらしく、アリスは口を挟む。

「そんな事のために、死んでもうてもええいうわけか?」
「そんな事のため? 私にはもうそれしか残ってないんだよ。死んだっていいよ、1人ぼっちよりいいよ!」

知らず知らずのうちにアリスに何もかもをぶち撒けたは、胸のハードカバーを掴んで腿に叩き付けた。そのの手をアリスは、ポンポン、となだめるように叩いてから言った。

「すまん、追い詰めるつもりやなかった。ただ、な、、僕達は――江神さんも含めてやけど、きっとは僕らとはまったく違う種類の世界にいてる子なんやろうって、ミステリ好きなんはよう解るけど、僕らとおっても窮屈な思いするだけで、楽しないんやないかって、そう思ってて。
ミステリ好きな人が他にいてないから、無理してるんやないかって、そう思ってた。けど、僕はひょっとしたらは江神さんが好きなんやないかって思い始めて。そしたら、無理してるかもしれんように見えるんも、不思議やないなって。でもそれで本当には苦しくないんか、って」

そこで言葉を切ったアリスはぼりぼりと髪を掻き毟った。アリスのそんな様子も、俯いたの様子も、遠目に見るとまるで別れ話真っ最中のカップルのようだ。幸い、目を留める人は誰もいなかったが。アリスは続ける。

……なあ、とりあえず江神さんの事は、僕はもうなんも言わん。それは江神さんとの問題やからな。けど、それとは関係ないから、一応言うておくよ」

そう言って腰を上げたアリスはの正面に立ち、すっと手を差し出した。

「友達1人もいないなんて悲しい事、言わんといてくれよ。僕は友達やと思うてるよ」
「アリスくん……

アリスを見上げたの目に、涙が溢れる。

「昔のはもう死んでしまいそうなんやろ? アリスでええよ、
「うん、わかった。アリス、ありがとう、アリス」

泣きながらくしゃりと表情を崩して笑ったは、震える手でアリスの手を強く握り返した。

に、アリスという友達が出来た。京都に越して来て以来、初めての友達だ。孤独から救われたは、もう臆病の虫に怯える事はなかった。消えまいとしてしつこく生き長らえている過去の自分にも、もう負ける気がしない。

2日後、はぎくしゃくしてしまったランチの事はさておいて、ラウンジへ向かった。EMCの指定席には、江神が1人でぽつねんと煙草をくゆらせている。それを見るなり、は学生会館を飛び出してコンビニへと走った。1番近いコンビニに駆け込むと、アイスクリームをとゼリーを1つ買い、また走って戻った。

江神はまだ1人だ。は呼吸をしっかり整えてから、歩き出す。もう緊張で震える事もない。恐怖も感じない。アリスたちがよろしく伝えてくれなかった、救急車騒ぎのお礼をしなおすのだ。

「こんにちは」
「おお、今誰もおらんのやけど……
「お邪魔でしたか?」

いやいや、と手を振る江神を確認してから、は向かい側に腰を下ろした。そして、おもむろにコンビニのビニール袋を突き出した。アイスクリームとゼリーが結露に濡れてビニールに張り付いている。

「あの、この間織田さんが言ってたアイスの件なんですが……
……なんやったけ」

ひょいと首を傾げた江神に、は夏休み前の事を簡単に説明した。

「その節は大変お世話になりました」
「気ィ使わんでもええのに。でもまあ、ありがたく頂くよ」

特に大喜びしている様子でもなかったが、それでも江神はカップの蓋を開き、アイスクリームを掬って口に運ぶ。は、その様子をにこにこ顔で眺めている。これは少し、江神には気まずい。

「自分の分は買うて来なかったんか?」
「えっ!? はい、いらないかと思って……

慌てたに、江神はふっと吹き出す。

「アリスが言うてたよ、『ああ見えては面白い子です』てな。どう見えてたんやろうな」
……アリス、友達になってくれました」
「あいつもええ子やろう?」
「はい。アリスだけじゃなくって、みなさんも」

の言葉ににたりと笑った江神は「それはどうかな」と言ったが、ふいに真面目な表情になる。

……無理は、しとらんのやろうな?」
「してません。もう、大丈夫です」

しっかりと答えたに江神は頷いて、「そんならええよ」と締め括った。

頷き返すの中で、過去のが、悲鳴を上げていた。