死せる心の果て

07

望月や織田、そしてアリスに勧められたミステリをその日のうちに買い込み、は寝食も忘れるほど熱中して読んだ。どれも、とんでもなく面白かった。ミステリに慣れてきた頭にするすると馴染んでいっては、ある種の快感をもたらすようにまでなった。

そんな時は束の間、江神の事も忘れた。まるで、自分自身を死に至らしめたほどの思慕の感情も、全てロジックの中に呑みこまれてしまったかのように。

数日かけて勧められた本を読み、今度は緊張すらも忘れては学生会館へと足を向ける。

早く感想を言いたい、共感してもらえるだろうか、それとも否定されてしまうだろうか。そんな不安だけを抱いてラウンジへと駆け込む。指定席はどこだったろうか。アリスを、望月を、織田を探す。そして彷徨わせた視線が凍り付いて、は息を呑む。

江神が、いる。

慌てて身を隠したは、急激に冷えた頭と身体に激しい動悸を感じて目を閉じた。

私もう、めちゃくちゃだ。

ミステリに興味を持ったのはなぜだったのか。それはもちろん江神に恋をしてしまったから。幸いにもミステリを読むのは楽しかった。面白かった。アリスという友達が出来たかもしれない。2人の先輩に色々教えてもらって嬉しかった。お勧めの本を読んだ。それも面白かった。だから感想を言いに来た。

おいで、って言われたから。ただそれだけで、3人に会いに来たつもりだった。

それは、本当に江神に少しでも近づきたいと願うの本懐の体現なのか?

江神という1人の人に一方通行の恋をし、その発露としてミステリに手を伸ばしたという事。ミステリというジャンルの書物に傾倒し、それに付随してくるアリスたちとの楽しい一時があるという事。繋がっているようで、どこかぴったりと重ならない。

江神には会いたい。声を聞きたい。お礼も言いたい。謝りたい。

だけど、江神という緊張の種とは接触せずにアリスたちとお喋りをしたいとも思う。

そのどちらも上手く折り合わせて飛び込んでいく勇気が、ない。江神に出会うまでの自分を亡くしかけているに、そんな勇気は持てそうにない。たくさんのものを失ったには、自分を守るための鎧が残っていなかった。勇気を持ちたくても、心を奮い立たせるための自信がまったくない。

恋焦がれているはずの、江神が怖い。何の根拠もなく絶対の自信としていた自分は夏の日差しの下で死を選んでしまった。今を支えているのは、江神への想い、そしてアリスたちという拠り所しかないというのに、それがどうしようもなく眩しくて目を背けてしまう。

過去の自分が、今のを鼻で笑っている。なんてみっともないの。恥ずかしい人。

誰か、助けて。

「あれ、来てたんか」

の頭上で声がしたのは、たまらずに両手で顔を覆ってしまった時だった。どきんと跳ねる心臓、強張った頬を取り繕う暇もなく顔を上げれば、そこにはアリスの顔。

「あ、アリスくん……
「どしたんや、みんないてるよ。早よおいでよ」
「そ、そうしようと、おも、思ったんだけど」
……大丈夫か、顔色悪いぞ」

ちっとも大丈夫じゃなかった。だが、アリスの顔を見ていると、徐々に落ち着いてくる。

「あの、ほら、今日はもう1人先輩来てるみたいだったから」

遠慮しようと思ったとでも言うつもりなのか。は自分でもおかしな事を口走りそうになったと気付いて、口をパクパクさせた。だが、アリスはそんなの動揺を笑顔で勘違いしてくれた。

「江神さん? ちょっと近寄りがたいかもしらんけど、そんなに怖い人やないから、おいでおいで」
「どこか行くんじゃなかったの?」
「別に大した事やないからええよ、1人じゃ行きにくいやろ?」

にこにこと背中を押してくれたアリスを見上げながら、は締め付けられる胸にそっと手を当てる。なぜこの人はこんなに優しいのだろう。友達だから? それとも、誰にでもこんな風に優しいのだろうか。生まれ育ったのが東京ではないというだけで見下していた人は、こんなにも優しかったのか。

アリスだけではない。望月と織田だって、優しかったじゃないか。アリスの口添えがあったからとはいえ、突然舞い込んできたに嫌な顔1つせずに色々教えてくれた。

は、一瞬だけ瞼を下ろして思う。

こんな風に、緊張とは無縁の触れ合いの中で、アリスや望月や織田を好きになりたかった。彼らなら振り向いてくれるかもしれないという打算ではない。だが、江神を想うほどには苦しむ事はなかったように思う。

江神は、アリス達のように、こんな風に優しくしてくれるのだろうか。がその手の届く範囲に身を置く事を許してくれるのだろうか。にこにこしながら、「おいで」と言ってくれるのだろうか。

そのどれもが否であったとしてもの恋心が消えるわけではない。

ただ、どうしようもなく怖いだけだ。

緊張とある種の恐怖でガチガチになっていたは、ともすれば倒れてしまいそうな身体を無理矢理に動かしてEMCのテーブルまでやって来た。出て行ったはずのアリスがすぐ戻ってきた事に気付いた織田が、ひょいと顔を上げる。次いで望月が、そしてとうとう江神が、気付く。

緊張がピークに達していたは、頑張って笑顔を作ろうとしたが、どうも上手くいかない。

「おお、来たか」

望月が声をかける。小さく頭を下げたの視界の端で江神は一瞬だけ不思議そうな顔をした。無理もない。夏休み前に救急車騒ぎで世話になって以来会っていないのだから。しかし彼はすぐにの事を思い出してくれたらしい。

「誰やと思うたら。身体の方はもうええんか」

江神はを見上げて、ふんわりと微笑んだ。その細めた目に射抜かれたは、改めて思う。私はこの人が好きだ。アリスも望月も織田も優しくて好きだけれど、恋をしているのは江神ただ1人だ。この人がいる限り、他の人に心を捧げる事など出来そうにない。

「はい、あの時は……ありがとう、ございました。お礼も、言えなくて、ごめんなさい」

深々と頭を下げたの向こうで、「江神さんだけアイスもろてないですもんねえ」と織田が茶化す。それに対して江神は「なんやアイスて」と返す。話していないのか、よろしく伝えてくれって言ったじゃないか、とはこっそり突っ込む。途端に、緊張の糸が緩んでするりと落ちていく。

東京を離れ、かつては自分の価値観だけが最上であると信じて疑わなかったは今、心の中心で息絶えようとしている過去の自分に囁く。お前なんか、早く死んでしまえ。お前がいつまでもそんな所にいると、私はこの人達の中に入っていけない。お前さえ、消えてくれたら、私は――

「ええよ、そんな事は。……ずいぶん楽になったようやし。どした、入部しに来たんか?」

気が早いと後輩たちに突っ込まれている江神を見て、は初めて笑顔を見せた。そして、候補生の件を説明しているアリスに腕を引かれて、席に着く。隣にはアリス。優しい優しい、まだそうでないのならどうしても友達になりたい、アリス。向かいには、涙すらも誘う愛しい江神。

「そんなら、候補生のうちに何でもいっぱい聞いておいたらええよ。いつでもおいで」

不安の種も弾け飛んだ。江神もアリスたちと同じように、優しかった。

こっくりと頷きながらは思い出す。あの鬱陶しい雨の日、傘を差し戻してくれた手を、その時の江神の声を、目を、後姿を。なぜ忘れていたのか、恥じる思いだ。

バカ。最初っから、優しかったじゃない。

江神に再会してからというもの、それまでとは比較にならない速度で過去のは弱っていった。逆に、現在のは変化を繰り返しながら元気になっていく。この頃になると、口を開けば苦言ばかりの母親にも反論できるようになってきた。関係は悪化しつつあるが、少なくともこれはが成長するための戦いだった。

一生母親の望むまま、の望むままでいられたなら、それはそれでいい。しかしはもう出会ってしまった。彼女の全てを揺らし、打ち壊した江神という存在に出会ってしまった。その一撃は過去のに致命傷を負わせ、今も必死にその存在を消されるまいとして抗っている。

は、母親を否定したいのではなく、自分を認めてもらいたいわけでもない。ただもう始まってしまった変化は止める事もかなわず、自分でも見えない未来の自分に引きずられるようにして生きているだけだった。

どんなに反対されようと、人を想う気持ちが揺るがないのと、それは同じ。

今日もは新たに読み終えたミステリの感想を頭の中に携えて、足取りも軽くラウンジへと向かう。候補生の勤勉さを称え、なおかつ激励の意味も込めて――これは望月が敢えて付与した大義名分だが――、今日はEMCとランチの予定だ。誰が言い出した事かは知らないが、は2つ返事でこれを快諾した。

しかし、ラウンジには望月と織田だけ。

「あれ、お2人だけですか」
「今のところ。どうせ後でもう少ししたら来るやろ」

すとんと席についたに、望月がメガネを拭きながら言う。彼のメガネを外した所を見るのは初めてだった。メガネがないと、ずいぶんさっぱりした印象になる。でも、悪くない。金がありそうには見えないが、安心感がある。それは織田も同じだな、とは考えて頬を緩ませた。

江神に夢中になってしまったけれど、かつては鼻にもひっかけなかった男の子達は、みんなとても素敵な人達ばかりだ。なぜそんな風に思えなかったのか、今では不思議に思う。そうなると、今度は女の子の友達が欲しい。はそっと辺りを見回す。

女の子はいっぱいいる。望月や織田のように、普通の、そして年相応の女の子たちばかりだ。稀に個性的なファッションの子もいるが、それでも楽しそうに喋っている姿はどの子も何ら変わりない。

ああ、女の子の友達、欲しいな。誰か、友達になってくれないかな――

ぼんやりとラウンジを見回していたの頭に、ポスン、と何かが落ちてきた。驚いて顔を上げると、江神がいた。丸めた紙での頭を叩いたらしい。慌てたは飛びのいて頭を押さえた。

「おおい、そんなに痛ないやろ」
「ごめんなさい、びっくりしたのでつい……

逆に驚かせてしまったらしく、江神は身を引いて手にしていた紙を取り落とした。床へ落ちていく紙切れを目で追ったは、それが部員勧誘のポスターであると気付いた。確か、江神に始めて会った時に見たものとよく似ている。

「これ……ポスターですか」
「よれよれになってしもうたし、新しくしようかと」

江神の言うとおり、ポスターは色褪せて皺が寄り、ところどころ破れかかっている。はポスターを拾い上げた。懐かしさがこみ上げる。このポスターがなかったら、あの日であった男が江神である事すら知り得なかったのだ。そう思うと、捨ててしまうのは忍びなかった。

「あの、これ、頂いてもいいですか」
「ええけど……ゴミやぞ?」

いいんです、とは呟き、丁寧にポスターを丸めると、バッグに差し込んだ。

「ねえもう行きませんか。お腹ペコペコなんです」

そうアリスが言ったのを潮に、EMCと候補生はラウンジを出た。