死せる心の果て

06

叔父の家に行ったその日から夏休みが終わるまでの間に、は結局31冊のミステリを読破した。あれだけ馬鹿にしていたミステリだったが、1度ツボに入ってしまったら止まらなくなってしまった。江神や、アリスたちはどんなミステリを読んでいるのだろうと気になって仕方ないまま、それでも読み続けた。

休みが明け、まだ暑い9月の空の下をはしっかりした足取りで歩いていた。

多少は抑え目になった服装ではキャンパスをさくさく歩く。すぐにでも学生会館のラウンジを覗きに行きたかったが、とりあえず用がない。きっかけが欲しいのが本音だが、どうにもならない事で焦ると、また具合が悪くなるかもしれない。チャンスはいつか巡るはずだ。はそう考える事にした。

そのチャンスはそろそろ9月も終わろうかという頃になって巡ってきた。

突然休講になってしまったはどこかでお茶でも飲みながら本を読もうと、校門を出る所だった。夏休み前の一件以来、コーヒーは飲んでいない。そんなの視界に、懐かしい顔が飛び込んできた。

「あ」
「お、久しぶり」

アリスだった。

休みボケなのか、やや気だるそうな動作で手を挙げたアリスに、も「久しぶり」と返した。アリスはどうやら学生会館の方からやって来たようで、ジーンズのポケットに手など突っ込みながらぶらぶらと歩いてきた。

「サボり?」

休みボケかと思ったが夏バテかもしれない。どうもしゃきっとしないアリスはにそう問いかけた。休講になってしまったからお茶でも飲もうかと思っているのだとが返すと、とろんとした目のアリスはかくりと首を傾げた。

「暑いもんなあ。涼しいところでお茶か、ええなあ」
「アリスくんもそうすれば?」
「生憎、自分でも可哀想なくらい金欠で」

そう言って自嘲気味に笑うアリスを、はごく自然にお茶に誘った。

「そうなの? 私静かな所探してるんだけど、お茶ご馳走するから教えてよ」
「え、マジで。そら悪い……けど頼むわ」

遠慮しかけたアリスだが、暑さと金欠の中でお茶の誘いには勝てなかったらしい。

この時には、アリスを懐柔してやろうとかいう気持ちは全くなかった。静かな場所を探していたのは事実だし、何より、少しでもいいからミステリの話をさせてくれる人が欲しかったのだ。それには同い年で、しかも高圧的だったの態度にも物怖じしなかったアリスは最適だと思われた。

2人は連れ立ってキャンパスを出た。

アリスの案内では小さな小汚い喫茶店へとやって来た。その佇まいを見てギョッとしたに、アリスは味は保証すると言ってドアを開いた。

店の中は真夏の真昼間だというのに薄暗く、しかし胡散臭いという事もない落ち着いた雰囲気だった。メニューの内容も豊富ではなく、迷いようもないラインナップだったが、アリスはアイスコーヒー、はアイスティーをオーダーする。うるさ過ぎず静か過ぎないBGMも心地いい、静かに過ごすにはうってつけの場所のようだ。

それぞれ乾いた喉を潤し、一息ついたところでが切り出した。

「なんか、疲れてる? 休みボケまだ取れてないの?」
「うーん、そうかもしれん。そっちはずいぶん……すっきりしたみたいやな」

一瞬言葉を選んだらしいアリスだったが、そう言うと柔らかく微笑んだ。それに安心したのか、は意を決して言ってみる事にする。少し緊張したが、言うなら今しかない気がした。

「あのね、私、ミステリ、読んでみたの」
……へえ」

虚を衝かれたアリスはストローを唇に引っ掛けたままそう言った。そんな風にアリスがポカンとしているので、はできるだけ短く纏めようと努力しながら、読んでみたら止まらなくなってしまって、今読んでいる本が38冊目なのだというところまで一気に喋った。

「さ、38……あれか、君はのめり込むタチなんか」
「そうかもしれない」

江神の事といい、ミステリの事といい、確かに京都に来てからのは何かにのめり込みやすくなっているかもしれない。しかしとりあえずそんな事はどうでもいい。せっかく生まれた江神との共通点なのだ。アリスには悪いが聞きたい事教えてもらいたい事が山のようにある。

遠慮がちに尋ねただったが、そこはアリスも推理小説研究会の端くれだ。基本的な事からマニアックな事まで、アリスは色々な事を教えてくれた。そして、ひとしきり話し終わるとぼそっと付け加えた。

「なんや、本当に入りそうな勢いやな、EMC」

EMCというのは英都大学推理小説研究会の略称なのだろう。しかしはゆるく頭を振った。

「ううん、入らないよ」
「え? 入ってもええ言うてたやんか」

そう、確かにそう言った。だが、それは江神に近づきたかったからというだけで、ミステリ好きだからEMCに入りたかったわけではない。30分ばかりアリスの話を聞いて、は考えを改めた。

「私まだ、たったの38冊だから」

それがなんだと遮ろうとしたアリスを押し留めて、は続ける。

「それじゃ、ダメなの。楽しそうだから仲間に入りたいって思うけど、それは、違うの」
「ようわからんな……色々教えてもらえると思うけど?」
「じゃあ、候補生にでもしてくれる?」

の言葉にニヤッと笑ったアリスだったが、そのうち学生会館のラウンジに遊びにおいで、と言った。は、こっくりと頷く。それでいい。候補生でいい。まだ過去のは完全に死んでいないのだから、そのくらいでちょうどいいのだ。

ひょんなきっかけで得たアリスとのティータイムだったが、はたくさんのものを得た気がしていた。ミステリの話、EMCの話、他にも雑談めいた事をたくさん話した。もしかして、アリスの事を友達だと思ってもいいのだろうか。だとしたらやっと友達が出来た事になる。

アイスコーヒーの1杯くらい、なんて事はない。は東京で過ごした日々の何十倍も楽しかった。アリスは変わらずだるそうにしていたが、の方は店を出る頃には背中に羽が生えそうなくらい浮かれていた。

喫茶店を出て大学まで戻り、別れ際にはアリスに何気なく聞いた。

「そんなに疲れるほど、夏休み楽しかった?」

自分はそんなに楽しくなかった、本を読み始めてからは少し楽しかったけど、とは言わなかったが、アリスは江神たちとキャンプに行ってきたはずだ。さぞかし楽しかっただろうと、ほんのちょっぴり羨む気持ちも込めてそう言った。

しかしアリスは、照り返しに目を細めながら――なぜか悲しそうに笑うだけだった。

候補生でいいとは言ったものの、はどのタイミングでラウンジに顔を出せばいいか判らず、アリスとのティータイムからしばらくの間、学生会館の前まで行ってみては帰ってくるという事を繰り返していた。

アリスのアドバイスによって読んでみるミステリの種類にも幅が出てきたが、感想は自分の中に閉じ込めたまま、吐き出す機会にも恵まれず、ただ買い漁った本を消化しては山と積み上げた。

突然本の虫になってしまったに、当然母親はいい顔をしない。だが、キャンパスでも熱心に本を読むに対して、父親の知人であるという教授准教授達の評判は良く、父親はそんなの変化を歓迎しているようだ。父親も父親の知人達も、まさかの読んでいる本全てがミステリだとは思うまい。

だいたい、は元々用意周到な性質だからして、本を剥き出しのまま持ち歩いたりしない。文庫だろうが新書だろうが、はたまたハードカバーであってもきちんとブックカバーをかけているから、一体どんな本を読んでいるのか、他人には判らない。

依然、ブランド尽くしのファッションである事には変わりないのだが、アクセサリやバッグは落ち着いたデザインのものを持つようになり、そんな所も影響してかを称して文学少女と言った人がいたとかいないとか。文学少女という表現はの父親を大変喜ばせ、壁一面の書棚を作ってやると言い出した。

しかしそこに並んだ本が純文学などではなくミステリと知れれば、父親がどんな反応をするか判ったものではない。は今のところ、これを遠慮している。

さて、その文学少女でありEMC候補生であるらしいがEMCに突撃する事になったのは、10月も半ばの頃だった。また校門を出ようとしていた所でアリスに会った。夏バテだか休みボケだかはいくぶんましになったようで、人当たりのいい笑顔でに声をかけてきた。

「この間はごちそうさま。今何冊目?」
「ちょっと課題とかあって……でも46」
「頑張れば年内100超えもいけそうやな。というか、これからどうよ」

そう言ってアリスは学生会館を指差した。候補生は途端に緊張を覚えたが、それでもすぐに頷いた。

学生会館のラウンジ、EMCの指定席に案内されながら、表面上明るく振舞っていただったが、その内心は緊張で上も下も判らないほどになっていた。江神がいたらどうしよう、会いたいけど会いたくないなどと考えれば考えるほど緊張も増していく。

だが、江神はいなかった。テーブルには望月と織田が何やらノートを広げて喋っているだけ。

せめてがっかりが顔に出てしまわないように気をつけながら、はアリスの後に続いた。

「お、君はこの間の。アイス、ありがとうな」

そう言った織田は「今日はアイスないんか」と付け加えて、望月からチョップを食らった。しかしアイスがないなら何も用はないはずのなので、望月と織田はどことなくきょとんとした顔をしていた。席について荷物を下ろしたアリスがにも椅子を勧めてから説明を始めた。

「彼女、最近ミステリ読んでるんですって」
「ほお、そりゃ感心感心」

望月がメガネをくいっと指で押し上げ、わざとらしく頷いてみせる。

「それで、僕は本当にEMCに入ればと言うてみたんですが、まだ冊数がいかないから候補生にしといてくれという事になりまして。色々知りたいそうですよ、ミステリの事」

とりあえず望月も織田も候補生という事に関しては異論はないらしい。むしろ「色々知りたい」という所に飛びついた。何によらずマニアというものは初心者に対して薀蓄を披露したがるものだ。

実のところ、はミステリに対して大層な偏見を抱いていたわけだが、その点は目を瞑るとしても、間違いなくド素人だ。それこそ偏見に満ちた主観で褒めようが貶そうが、大人しく聞いている。きっと望月と織田の言う事を疑ってかかる事もないだろう。

「そんなら、今言ったの早速読んで、また感想言いにおいで」

そんな偉そうな望月の発言にこっくり頷くを少しだけ心配そうに見つめるのはアリスだけだ。

何もはこの2人に全幅の信頼を寄せているわけではないのだが、おそらく新しい未知の知識で頭が目一杯になってしまっているせいで、疑問の生まれる余地がないのだろう。とにかくメモを取り、片っ端から読んでみるしかその真偽を確かめる方法はない。

「そんなに気負う事あらへんよ。いつでもええからまた遊びにおいで」

そう言ってを送り出すアリスの言葉すら頭に入っているかどうか。今すぐ書店に行きたくて仕方がない様子ではラウンジを出て行った。きっと数日のうちに舞い戻ってくるに違いない。の後姿を見送りながら、織田が頬杖を付いて呟いた。

「あの子、ずいぶん雰囲気変わったなあ。殆ど別人やないか」