死せる心の果て

05

夏休みに入ってしまうまで、結局は江神には会えず終いだった。アリスや望月、織田とは面識が出来たが、江神への足がかりになるものでもない。江神への恋心と、自身の葛藤、そのどちらも中途半端なまま、も夏休みへと突入した。

お盆ラッシュにはまだ早い8月上旬、は4ヶ月ぶりに東京の地に降り立っていた。

「とうきょう……

新幹線を降り、東京駅のホームでは思わず呟いた。帰りたくて帰りたくて、夢に見るほど帰りたかった東京の空の下にいながら、はどこか虚しさを感じていた。江神にさえ出会わなければ、と思うが、それを悔いてもどうにもならない。はこれから約1ヶ月を東京で過ごすのだ。

大学に入学したばかりの頃は、夏休みになったら東京に飛んでいこう、休みが明けるギリギリまで東京にしがみついていよう、と思ったものだが、荷物をズルズル引きずりながら考えるのは、江神たちの事ばかり。いつキャンプに行くんだろう、どこの山に行くんだろう、そこで――彼女とか出来ちゃいませんように。そんな事ばかりだ。

1ヶ月東京といっても、宿はバラバラ。どんなに仲がよい友達でも丸々1ヶ月間世話になるわけにはいかないし、仲良しグループの家を渡り歩いても、遊ぶのなら結局似たようなメンバーが揃ってしまう。そんなわけで、1ヶ月のうち2週間は友人宅を1週間ずつ、もう1週は親戚の家、そして最後の1週はホテル泊まりになった。

は駅を出てタクシーを待つ間に、すうっと大きく息を吸い込んだ。東京の空気が懐かしい。明確な表現は出来ないが、京都とは違うような気がする。すれ違う人達が関西弁を喋らないのも、今となっては多少の違和感がある。見慣れたカラーリングのタクシーですら、郷愁のようなものを誘った。

タクシーの運転手は、言葉少なで、あまり愛想がなかった。これぞ、東京。はこっそり頬を緩めた。

遠路はるばるやって来たを、友人も友人の家族も温かく迎えてくれた。京都土産を差し出し、聞かれれば向こうでの生活についても話すのだが、実際それほど話す事のないは、むしろ逆に東京の話を聞きたがった。京都に未練を――正しくは江神に、なのだが――残しているなど、思いたくなかった。

友人の家に泊まると言っても、や仲良しグループにとって、友人の私室で布団を敷いてもらって寝起きする――などという事はありえない。ちゃんと客室がある。ホテルなみに充実した客室ではないが、セミダブルのベッドに、ドレッサー、クローゼット、テレビは完備だ。

さらに、友人の部屋がある階には、メインのバスルームとは別にシャワールームがある。朝食などを世話になる以外では、家族の者にも手を煩わせる事がない。

荷物を解いたは、さっそく友人の部屋へ招かれた。リチャードジノリのグレースに香り高い紅茶が湯気を立てている。ティーカップ1つとってみても、性格が出る。今日から世話になる友人の母親はとにかく白いティーカップが好きだった。

「どう? 向こうで彼氏出来た?」

とはいえ、高価なカップでお茶を飲んでいても、話す内容など同世代の女の子と大差ない。当然1番最初にふっかけられる質問だという事は判っていたから、は用意していた言葉を返す。

「まさか。合わないよ」
「合わないって……じゃあこっちに戻るまで彼氏ナシのつもり?」

やはり友人もと同類なのだ。は、大学を卒業したら1人立ちをし、〝東京に戻ってくる〟と信じて疑わない。家庭の事情で仕方なく東京を離れたが、自分達の生きる場所は東京以外にない。当然就職も結婚も東京でするものなのだ。その道以外が存在する事を、否定する。

だから、は言葉を用意している。

「いっそ遠恋もありかな」

は充分に冗談めかして言ったつもりだったが、友人は露骨に嫌な顔をして「なにそれ、そんなの意味ないじゃん」と言った。心の一部を江神に絡め取られてしまったの奥底で、小さな小さな声がする。じゃあ、人を好きになる事の意味って、何なの。

私のこの気持ちは、一体何なの。

友人の家に世話になっている間、は毎日のように外出して真夏の東京を遊び尽くした。1週目、2週目と世話になった友人はどちらも仲良しグループの仲間なので、寝ても覚めても気の合う友達と遊び呆けた。

が越してしまってから新しく出来たショップを教えてもらい、最近見つけたという店でランチを食べ、新作のスイーツだという菓子類を、それこそ毎日のように食べ続けた。友人たちはウェイトを心配していたが、ここしばらく欠食気味だったは何でもよく食べて、むしろ元気を取り戻していく。

服やコスメを買うだけではない。どうやら同様、大学に進学してから仲良しグループの誰1人として彼氏が出来ていないらしい事もあって、今度はスパだ、エステだ、ネイルサロンだ、と、とにかくは東京中を駆け回った。

それら全てが最高に楽しい事であり、体力を取り戻しつつあるは日が経つに連れて江神たちの事を思い出す時間が短くなっていった。京都よりはましとはいえ、真夏の炎天下、千葉のテーマパークに行った時などは、完全に忘れていた。

こんな事をしているうちに、あれだけ自分を痛めつけながら手にした江神への恋心など失くしてしまうかもしれない。はそう思い始めていた。東京にいられるのは長期休暇の間だけという事は解っているし、少なくとも大学を卒業するまでは京都が拠点になるのは確かなのだが、この程度で消えるものなら惜しむ気もない。

毎夜、眠りに落ちる前のを邪魔し続けていた江神の顔も、なんだかよく思い出せないような、そんな気すらしていた。それならそれでいい。陳腐な言葉だけど、やっぱり〝住む世界〟が違うのだ。そう、納得しかけていた。2件目の友人の家で6日目を過ごしたその日の夜までは。

もう一晩泊まれば、はまた荷物を纏め、今度は親戚の家に移る事になる。最終週のホテルに移るまでの1週間は遊べないから、と友人たちはをクラブに連れ出した。一晩中踊る予定だった。

内臓にまで響くような音楽は気にならなかった。宙を漂う紫煙も、香水が混じりあった甘い匂いも、なんと言う事もなく馴染んだ。けれど、おそらくはナンパのつもりで声をかけてきた男を見た時に、はあまりの衝撃に愕然とした。友人たちは楽しそうに相手をしていたが、は両手をキュッと握り合わせて、ただ視線を泳がせていた。

友人たちが楽しそうに相手をしているという事は、身に着けているものは安物ではなく、社交性があり、かつルックスも悪くない男性だったのだろう。友人たちが歓迎したので、男は友人を呼び寄せ、場所を変えないかと誘う。友人たちは行きたがった。誰も彼も、合格点だったのだろう。

その中で、1人が体中に満ちる拒否反応と戦っていた。

いやだ、こんな男。

口に出せない拒否の言葉が頭の中でぐるぐると回っている。高価そうなアクセサリーをつけて、きつい匂いを撒き散らし、慇懃であるのにどこか白々しい。指先に引っ掛けた車のキーがキラキラと光を反射して、は目を回しそうだった。

東京の男って、こんなに、こんなに――汚かったの?

瞬時に蘇る、鮮明な江神のイメージ。の傘を差し直した時の不思議そうな顔、軽くあしらわれた時の柔和な顔、病院でに向けた、真摯な眼差し。それに比べて、今たちを誘い出そうと、静かに必死になっている男達のなんといやらしい事か。なんと低俗そうに見える事か。

もちろん、の抱いた印象が正しいか、それとも単に「あばたもえくぼ」の盲目ゆえかは解らない。しかしとにかくは、こんな男達と夜を明かすのは御免だった。そんな男達に対して焦らすように横目で視線を送っている友人たちも――見ていて気持ちが悪い。吐きそうだ。

忘れていたはずの江神の顔が眼前にちらちらと踊り、回るライトに彩られている。は、本当に眩暈を起こしてその場にへたり込んだ。早くここから出して、私を連れ出して。記憶の中の江神にそう助けを求めながら、は逃げるようにクラブを出た。

当然、何事かと追ってきた友人たちには文句を言われた。せっかくうまくいってたのに、彼氏出来たかもしれないのに、どうしたのよ。そう言って肩を揺すってくる友人たちの胸倉を掴み、怒鳴ってやりたかった。あんな男のどこがいいのよ、あんな頭悪そうなのが何でいいのよ。そう詰め寄りたかった。

「ごめん、ちょっと疲れたのかもしれない」

そう誤魔化しただったが、東京の空の下、星も見えない繁華街の路上で初めて自身の変化にきちんと向き合った。もう、東京にいた頃のではなくなってしまっている。俯いた目に映るアスファルトは京都とも変わらないのに、まるで異世界の土を踏んでいるような気がした。

もうとっくに変わってしまっていたんだ。江神さんに出会ったあの日から、それまでのは少しずつ少しずつ消えていって、ほとんど残っていないんだ。かろうじて残ってる昔のが、今のを否定したくて、こんなに私を苦しめているんだ。

いつまでもに文句を言い続けていた友人たちに囲まれて歩きながら、はぼんやりと考える。

親戚の家に行ったら、本を読もう。ミステリを読もう。ネットで下調べをして、本屋へ行こう。ギラギラした東京のエネルギーで疲れてしまった心を、ロジックで満たそう。そんな些細な共通項だけを頼りに、江神の影に寄り添い、死にゆく過去の自分を安らかに眠らせてあげよう。

翌朝、どこか遠い目をし始めてしまったを、友人は言葉少なに送り出した。

、変わったね」

冷めた目でそう言って、手を振る事もなく静かにドアを閉めた。

おそらく、よほどの事がなければ仲良しグループの友人たちは、2度とに連絡は寄越さないだろう。それも解っている。しかしはもうそんなものに未練はなかった。東京に生まれ育ち、東京に依存していたは死にかけているのだ。死の床にあって、過去のは無闇に抗うだけの虚ろな存在だ。

そんな心を抱えながらのんびり移動したは、昼前になって親戚の家に辿り着いた。

この日からが世話になるのは、父方の親戚の家。高校教師の叔父と区役所勤めの叔母、そして猫が1匹いるだけの静かな家だ。結婚の遅かったの父親より早くに子供を設けていたので、叔父夫婦の子供――つまりのいとこはとっくに独立している。

ちゃん、なんか雰囲気変わったかしら? まあもう、大学生だものね」

叔母がそう言いながら出してくれた麦茶は見るからに安物のグラス――いや、コップに注がれていたが、はうまそうにゴクゴクと飲み干した。そうして叔父夫婦相手にひとしきり京都の話などをしたは、あてがわれた部屋で持ち込んだノートパソコンを開き、面白そうなミステリを探し始めた。

叔母が張り切って用意してくれたらしい豪勢な昼食を挟んでまた探し、午後2時までにどうにか5冊を絞り込んだ。が本を買いに外出すると言うと、高校教師である叔父はにこにこしながら車で連れて行ってくれると言う。最近の子は本を読まないと思っていたから、嬉しいのだと言う。

思わぬ待遇にも喜んだ。少し遠出して、大きな書店まで連れて行ってもらい、目当ての本を買って帰ってきた。叔母がまたも張り切って夕食を奮発していたようだが、は買ってきた本を読みたくて仕方なかった。

そして、夜。早めに風呂をもらい、敷布団にごろりと横になったは、積んであった本の1番上の1冊を手に取って開いた。ネットで少し調べただけでも、「とりあえず黙って読んでみろ、面白いから」と方々で賞されていた1冊だった。しかし気負う事なく、は読み始める。

――気付いた時には、夜が明けていた。