死せる心の果て

04

謹慎の解けたは、少しだけ緊張しながら大学へと向かっていた。手には1番近いコンビニで買ったアイスクリームが4つと、ゼリーが4つ入っている。推理小説研究会の4人に渡すためだ。

父親には先生に挨拶すると言ったが、そんなものは後回し。まずはラウンジに駆け込んで礼を言い、向こうが恐縮しすぎない程度の差し入れをするのだ。それにはコンビニで1番高いアイスクリームくらいがちょうどいい。アイスクリームはその場で食べてもらい、ゼリーは持ち帰ってもらうため。荷物にならないから、さらに都合がいい。

正門など見向きもせずに、は学生会館へと直行する。

あの雨の日に行ったきり、足を向ける事もなかった学生会館に近づくほど、の足は震えだした。病院まで付き沿ってもらってからは、まだ1週間程度だが、それでも江神がいるかもしれないと思うと、異常に緊張した。

昨晩熟考に熟考を重ねたお礼の言葉を心の中で何度も繰り返す。予想できる範囲の受け答えもどれだけシュミレートしたか解らない。例えまた軽くあしらわれても、逆に食いつきが良かったとしても、どちらでも即座に返せる用意があった。

そうして、意気揚々とラウンジに乗り込んだは、危うくアイスクリームを取り落とすほど落胆した。

江神がいない。

しかも、他の3人はいるのに、江神だけがいない。講義がない時間帯をきちんと狙ってきたのに、どういう事だとは肩で大きくため息をついた。だが、そこで回れ右をするわけにもいかない。江神を含めて4人が揃う時を狙って何度も挑戦してもいいが、今日のアイスクリームの処分に困る。教授にあげるには量が多すぎる。

は諦めて歩き出した。本人を目の前にするよりも、おそらくは後輩であろう3人を経て話を聞いたほうが印象がいいかもしれないのだし、取り巻きを抱き込んでおいて損はない。そんな事を考えながらは推理小説研究会のテーブルへと近付いて行った。

「あの、よろしいでしょうか」
「あ! この間の」

さりげなく声をかけたに、最初に反応したのはベリーショートだった。その声に気付いたメガネも「おお、もうええんか」と手を挙げる。1人きょとんとしているのは特徴なしだけだった。

「おかげさまで、すっかりよくなりました。その節は大変お世話になりまして、ありがとうございました」

間違ってはいないのだが、まだ10代であるが言うと逆に不自然だ。メガネがフッと吹き出し、それを横目で見た特徴なしがためらいつつも割り込んできた。

「あのう、なんですか、この間のって」
「ああ、お前おらんかったな、そういえば。この子、校門で倒れてもうてな」
「ちょうど江神さんと俺らがここから帰る時で、病院まで付いてったわけや」

メガネとベリーショートの説明に、特徴なしがふんふんと頷いている。そこへはコンビニ袋を差し出す。

「それで……お礼といってはなんですが、よろしければ皆さんで」
「なんや、悪いなあ。付いていっただけやのに」
「まあ、俺とお前はな」

ニコニコと謙遜するメガネにベリーショートが突っ込む。すると、救急車を呼んだり、の連絡先を調べたりして世話をしてくれたのは江神1人だったという事か。その当人はどこにいるのだ。

「あの、もう1人の先輩は今日はいらっしゃらないのですか」
「ああ、今日はバイトや言うてたな」
「そうですか、くれぐれもよろしくお伝えください」

バイトという可能性に思い至らなかった、裕福な家の娘は、そっと心の中で舌打ちをした。あれだけ金のかかっていなそうなファッションをしているのだ、懐は寂しいに決まってる。それならバイトするのは当たり前ではないか。さすがにバイト先はどこだとは聞けない。

するべき事を終えたは、そのまま場を辞して帰ろうと思っていたのだが、メガネに引き止められた。

「アイス4つもあるやんか。あ、江神さんの分やな。君、食べていかへん?」
「そうやそうや、江神さんに届けてもいいけど、溶けたアイスは嫌がらせになってしまうからな」

自分の言った事にベリーショートは楽しそうに笑った。それを見下ろしていたは、特徴なしの隣席を勧められて、少しだけ青くなった。ただ礼を言うだけ、好印象を残す事だけが今日の任務だったのだが、江神だけを欠いた状態で一緒におやつとは。

何を話せばいいってのよ……

「ハーゲンダッツなんて久しぶりや、うまー!」

アイスクリームを口に運ぶなり、ベリーショートが唸った。

が買ってきたのは、バニラが2つとラムレーズンが2つ。相手は男なのだし、あまり奇をてらったセレクトはやめた方がいい。のその選択は正しかったようで、3人はラムレーズンを取り合い、結局特徴なしがバニラを押し付けられた。どうやら彼が1番年下らしい。

バニラを突付きながらビクビクしていただが、何を話せばいいのか悩む事はなかった。とにかくメガネがよく喋る。メガネが喋ればベリーショートと特徴なしも喋る。は、聞かれた事だけを答えていればよかった。

「そういや君、何回生やったんかな?」
「1回生です」
「お、そんなら僕と同期やな。有栖川っていいます」

特徴なしはそういって軽く会釈する。が名乗り返そうとすると、メガネとベリーショートが「俺、望月」「織田!」と割り込んできた。同期の有栖川に、どうやら先輩らしい望月と織田。は忘れないように黙ってその名を繰り返した。

といいます」
「というか、出身、関東か?」
「はい、東京です」
「毎年何人かはおるんやなあ、なんで京都まで?」
「父の転勤で」
! 思い出した!」
「なんやアリス」
「いや、この間のテスト、1人だけえらい成績良かった子がいてると聞いてたんです。確かって」
「ほお、そらすごいな」
「いえその、そのおかげで倒れましたので、大した事では」

3人の猛攻撃の中で、は情報操作も達成できた。この様子では、特に悪印象を残しているわけでもなさそうだ。それまでただ無意識に冷たい物質を口にしているような気がしていただが、突然バニラアイスクリームがおいしくなってきた。だが、またメガネの一言では青くなった。

「そういや、なんでウチに入ろうかとか思ったわけよ」

1番聞かれたくない事をほじくり返されてしまった。しかし、もっとも可能性の高い、しかし回避したい話題に対してシュミレートしていないわけがない。は済まなそうな顔を作ってさらりと言った。

「あの雨の中、先輩お1人でポスターなど貼られていましたので、熱心でいらっしゃるのに集まりが悪いのかと思ってしまいまして。余計なお世話をしてしまうところでした」

貶しもしない、持ち上げもしない、それでいて流してしまえる内容。完璧だ。はそう結論付けた切り返しだったのだが、望月はかくりと首を傾げると、スプーンを突きつけながら言った。

「それはええんやけど、あれやな、君、江神さんの言うた通りやな」
「は、い……?」

突然出てきた江神の名に、は唇を震わせた。言った通りとはどういう意味だか解らない。自分は江神に何か言われていたのだろうか。些細な、そして厚意のある事ならいいが、悪い事だったら立ち直れないかもしれない。

「なんや、覚えとらんのか。言うてたやろうが、隙がなさ過ぎて、見てるほうが苦しい、て」

織田が「ああ、病院で言うてたな」と言っている声が、とてもくぐもって聞こえる。もちろん忘れてなんかいない。そう言った江神の表情も、唇の動きも全部鮮明に覚えている。だが、言葉の真意はよく解らないままだった。自分自身、隙がなくて苦しいように振舞っているとは、到底思えなかったからだ。

「仕事やあるまいに、まさか東京ではそういうんが当たり前なんやないやろうな」
「そんなわけあるかい。江戸弁とかいうもんもあるやないか」
「おう、こちとら江戸っ子でい、てなやつか」

楽しそうに喋りだしてしまった望月と織田を前にして、は手が震えださないようにするのが精一杯だった。またしても、彼女の〝常識〟は打ち砕かれていく。何が駄目で、何が良いのか、解らない。丁寧で良識ある態度がなぜ、苦しいのだろう。自分はどんな風に自分を苛めているのだろう。まったく解らない。

腕の震えを必死で堪えていたら、今度は涙が滲んできた。どこまでいってもうまくいかない。京都に来てからずっと空回りし続けている。地に足をつけたいとは思うのに、その突破口がどうしても見えてこない。

やがてアイスクリームを食べ終えた望月と織田が、やはりバイトだと言ってゼリーを手に帰ってしまい、はアリス――有栖川はそう呼ばれているらしい――と残された。

先輩2人が帰ってしまうと、アリスは恐る恐る、といった様子でに声をかけた。

「アイス、ごちそうさま」
「とんでもありません……
「ホラ、それや!」

隣にいるアリスはに向かって人差し指を突きつけた。色々限界だったは、自分でも解るくらいに情けない顔をしてアリスの方に向き直った。

「それって……
「君がどんな環境で過ごしてきたのかは知らんけど、少なくとも僕は同い年の同期なんやし、言葉、違うやろ?」
「ちが、違うって、何もおかしな……

とうとう震えを抑え切れなくなった唇から、これまた震えた声が出た。だが、アリスはそれについては何も反応を見せずに、ゆるく頭を左右に振った。

「ああもちろんおかしないよ、おかしくはない。けど、さっきのやつや。〝苦しい〟――堅苦しいんや」
「それの何が――
「まあ、それでも僕は構わんけど、そんなんやったら友達出来ないぞ? 仲良くなれんやろ」

現状、実際に友達が1人もいないは、頭の中で何かがパチンと弾けた。大声で怒鳴り返したかったが、唇も耳も首筋ですら痺れてきて、か細い声になってしまう。それでもは言った。

「大きなお世話よ、なんでそんな事あんたに言われなきゃ――
「そうそう、そういう感じ」
「いけない……はい?」

アリスの相槌に、は痺れの残る唇をキュッと結んだ。

「まあ、先輩たちは多少敬語がないとマズいやろうけど、それが普通ちゃうんか?」
「だからって……丁寧にして何が悪いのよ」
「悪かないよ。ただ、庶民ごときがアタクシに馴れ馴れしくしないで下さる? って言われてる気がする」

今度は鈍器で殴られたような衝撃に襲われて、はついこめかみに指をついた。

庶民ごときが馴れ馴れしくしないで下さる?

も馬鹿ではない。その言葉を何度も変換し、意訳し、入れ替えたなら、これまで自分が考えていた事、態度が要約されていると解る。なんて尊大で汚い言葉だろう、なんて失礼な言葉だろうと思った。これではまるで毛皮に宝石だらけで髪が紫の成金ババアではないか。

実際のところ庶民にとっては、毛皮の成金ババアも由緒正しい傲慢お嬢様も大差ない。これまでのにとってだけ、天と地ほども差があっただけの話だ。経済的に裕福である事が人間として優位であると思っている点では何も変わらない。

せっかく体調が良くなったのに、ガンガンと鳴り出した頭を指先で支えながら、はそれでもこれまで自分が〝常識〟としてきたものと決別できない事を感じていた。江神への恋心のように、そんな事は認めたくなかった。認めてしまったら、今度こそ頭がおかしくなってしまいそうだった。

そんなの肩をポンと叩いてアリスが立ち上がる。

「そんなわけで、僕もバイトや。アイスごちそうさん」
「みんな……バイトしてるの」
「ま、今は特にな。休み中にこのサークルで山にキャンプ行くんや。金貯めとかんと」

さっと手を挙げて去っていったアリスの立てた風が、の痺れた身体を撫でていく。学生の貧乏キャンプなんて嫌だ、でも江神さんとキャンプ、いいなあ。そんな風に思っても、庶民の遊びには混ぜてもらえないのだ。高級リゾートにある別荘への招待なら飛んでいくは、混ぜてもらえないのだ。

がその心に縛って離さない〝常識〟と決別しない限り、仲間はずれで友達も出来ないままなのだ。

「どっちも、いやだよ――

騒がしいラウンジに1人、は俯いて涙を零した。