死せる心の果て

03

鬱陶しい梅雨の間中、は江神に一目惚れしてしまったのではないかという、自身の疑惑と戦っていた。

特別な機能が備わっているの目によれば、教養はあっても金はなく、落ち着きはあっても車を持たない江神など、鼻にもかけない存在であったはずなのだ。静かな隠れ家的レストランでオーガニック食材を使ったランチを振舞ってくれそうにないし、夜景の見えるバーでオリジナルカクテルを頼みそうにもない。論外だ。

しかしいっこうに江神の顔は消えていかない。それどころか、日増しにその症状は悪化していく。

ふらりと立ち寄った書店で、ミステリフェアなどやっていると、つい覗いてしまう。どんな表紙も暗い色で染められており、なんとかの殺人だのなんとかの疑惑だの、安直なタイトルばかりが目に付く。なんでこんなものが面白いのだろう。は腕組みをして考える。

推理小説なのだから、当然誰か死ぬ。猟奇的で、無作法で、理不尽で、しかも狡猾な方法で誰かが殺されるのだろう。そして探偵だかなんとか警部だとかが、殺人者に怒りを覚えながら推理に熱中する。最後は全ての謎を解いて、犯人が涙ながらにくずおれ、そこでおしまい。

何が面白いの……

殺人の理由なんて、痴情のもつれとか、借金とか復讐とか、そんな適当なもので、まあたまには快楽殺人もあるだろうが、そんな事はどうでもいいのだ。要はどんな手がかりがあって、それを元にどんな冴えた推理を見せられるかが焦点。なぜ犯人は凶行に走るに至ったかなど、おまけのようなもので。

なにそれ、浅すぎるじゃない。

の好む小説というものは、人の心の動きが丁寧に緻密に描かれ、含蓄のある台詞や文章が巧みに編まれ、人が生きるという事に真摯に取り組んだ作品でなければならない。なにより、最後には号泣できるようなものが好ましい。嗚呼、素晴らしき哉人生! そんな読後感こそ命だ。

ミステリと言われるものも、読んだ事がないわけではない。だが、どうにも品性を欠く印象が強く、泣ける作品には当たらなかった。結局、何が言いたかったのかと頭を捻るばかりで、面白くなかった。

そうやって書店で1人悶々としては、やはりシアトル系カフェに辿り着く。

すっかり顔を覚えられてしまったらしいに、店員の女性は「いつもありがとうございます」と付け加えてくれる。とうとうタンブラーを購入してしまったは、1回の来店で平均して2杯は飲んでいく。そのせいか、この頃あまりよく眠れない。

不眠なんてとんでもない、美肌の大敵という事は判っているのだが、ラベンダーのアロマオイルを焚いても、カモミールティーを飲んでも、安眠は訪れない。母親にねだってエステに行った時だけぐっすりと眠ってしまい、それ以外ではちらつく江神の顔に邪魔されて、やっぱり眠れない。

気付いた時にはもう7月になっていて、梅雨も明けていた。

自身の変化を否定するあまり、カフェインばかりを摂取した挙句、ろくに睡眠も取れていないはどんどん病んでいく。それでも自覚症状はたまに胃が痛む程度だったから、に自分が今にも壊れそうだという自覚はない。学期末試験にも手を抜かないは、さらに疲れていく。

試験も終わり、学生たちが浮かれた様子で夏休みの計画を立て始める頃、の疲労はピークに達していた。不眠とストレスで痛めつけられた心と身体は、ある日の午後に、とうとう悲鳴を上げて暴れだした。

帰宅するために校門を出たは、突然強烈な眩暈を起こしてその場にぺたりと座り込んだ。反射的に立ち上がろうとするが、首から上は無意識にぐらぐらと揺れるし、腕は震えるし、痛み出した胃はさらに吐き気までも催した。夏の日差しが俯いたの後頭部を容赦なく焼き、涙が溢れ出る。

どうしよう、私、どうしちゃったの。それだけしか考えられないは、とうとう灼熱のアスファルトに倒れた。

意識が朦朧とするは、強い力で身体を引き起されて僅かに自我を取り戻す。仰向けにされた状態で見上げると、なぜか江神の顔があった。その江神の顔の向こうに、メガネとベリーショートも見える。に何か声をかけている江神の言葉は、聞こえなかった。耳鳴りと共に、は意識を失った。

が意識を取り戻した時、最初に感じたのはムッと鼻につく消毒薬の香りだった。

夏だというのに身体はすっかり冷えていて、手足の末端が妙に痺れている。頭も瞼も重い。ごわごわと硬いリネン独特の感触が不快で、は身を捩って無理矢理目を開けた。その途端に、ばっちり目が覚めた。カーテンで仕切られたベッドの周囲に、江神とその仲間2人がを見下ろしていたからだ。

「あ、起きた」
「大丈夫か」

江神ではない2人――メガネとベリーショート――がポンポンと声をかけてくるが、はそれに応えられるほどには回復していなかった。無理に起き上がり、なんでこの3人がここにいるの、なんで私もここにいるの、と言いたくても言えずに口をパクパクさせた。

「熱中症、貧血、ついでに低血糖。あまり芳しくないらしいぞ」

江神がそう言って、やっとは自分が倒れた事を思い出した。

「それと、すまんが緊急連絡先を調べるために私物を触らせてもらった。救急隊員の方の立会いで探したんだが……お前、自律神経失調症になってもうてるかもしれんぞ」

なぜ緊急連絡先を調べて自律神経失調症に行き当たるのか、は首を傾げた。

「プライベートに口出すつもりはないが、ちょっとこれは異常やないのか」

の膝に、紙切れの束が投げ出された。全て、シアトル系カフェのレシートだった。ここ2週間ばかりのレシートだが、1日につき2枚から3枚、4種程度のビバレッジが正しくルーティンされ、それが土日を除いたぶんだけ毎日ある。これでは中毒のようだ。江神を追って、メガネも口を挟んだ。

「持病かなんかあるとマズいやろうから、ピルケースも開けさしてもろたが……サプリ飲みすぎやな」
「サプリの種類でだいたい何が不調なのか判るやろう? 救急隊員の人が自律神経失調症を疑ってた」

は、恥ずかしさと屈辱で冷や汗をかいた。何も言い返せない。どれだけハードワークでも決して手を抜かないプチ・セレブであるはずのは異常なほどに毎日シアトル系カフェで何かしらを飲み、欠食の末、てんでばらばらなサプリを携帯していた事で自律神経失調症を疑われる始末。

本来ならば、倒れたと共に病院まで付き添ってくれた事に、まずは礼を述べるべきところだ。だが、は本来の自分と、現在の自分とのギャップに絶望している。とても感謝の気持ちなど、持てない。

まだ目を泳がせているだったが、そこへ看護師が入ってきた。家族と連絡が取れたから、付き添いは帰ってもよいとの事だった。3人はぺこりと看護師に頭を下げると、メガネとベリーショートは「そんなら、お大事に」と言って、さっさとその場を後にした。

気が付いてから、まだ一言も喋っていないは、やはりまだ何も言えずに固まっていた。江神はそんなの前に身体を屈めると、低い声で、静かに言った。

「お前は隙がなさすぎて、見てるほうが苦しい。あんまり自分を苛めてやるなよ、可哀想やろう」

江神は先に出て行った2人と同じように「お大事に」と言い残して帰っていった。処置室だったらしい部屋に1人取り残されたは、ドアが閉まってからきっかり20秒後に声を上げて泣き出した。その声を聞いて飛んできた看護師が何を問いかけても、構わず泣き続けた。

結果、は神経性胃炎と自律神経失調症と診断された。どちらも結局は深刻な状態ではなくて、もうすぐ夏休みだという事も幸いした。医師は充分に休み、ストレスを排除し、身体に負担をかけない程度にきちんと食事を取るよう指導し、薬を処方した。

母親に伴われて病院を出ると、は母親に叱られた。原因不明、もしくは原因となる要素のない突発的な病気ならともかく、自己管理がなってないと苦々しい言葉を浴びせられた。精神的なものが原因だなんて、そんなみっともない事になってどうするのだと、延々叱り続けた。

父親の知るところになってはいけないから、今日の事は絶対にばれないようにしろときつく言い含められたが、はあまり真剣に聞いていなかった。ふと時計を見てみれば、母親に連絡が取れてから彼女が駆けつけるまで、2時間以上かかっていた。自宅から病院までは45分で済む。残りの時間は身支度だったに違いない。

「パパには風邪をひいたと言うから、落ち着くまで部屋から出て来ないでよ」

は、それにも適当な返事で返した。と完全に同類である母親の冷たい言葉も、今はまったく頭に入って来なかった。タクシーの窓を流れていく京都の景色をぼんやり眺めながら、は江神の言葉を何度も思い返し、その時の彼の瞳を記憶の中でずっと見つめていた。

真夏の京都、盆地であるがゆえの猛暑の空は、真っ青で眩しかった。その空にも、江神の顔と声が浮かぶ。

は、母親の暴言に生返事を返しながら、思った。

私、やっぱりあの人の事が、好きなんだ。

神経性胃炎や自律神経失調症はともかく、熱中症やら貧血、低血糖などの症状は3日も休むずいぶんよくなった。医師の言うストレスも、処置室で大泣きした事と江神への恋心を認めたせいですっかり取れてしまった。

今はむしろ、体調不良も改善されたのだし、江神やメガネとベリーショートの2人にきちんとお礼を言いに行きたかった。何かおいしい冷たいものでも手土産にして、失礼を詫びた上で感謝の意を述べたかった。しかし、救急車で搬送されたに母親は3日寝ていたくらいでは外出を認めてくれなかった。

以来きちんと食事は取っているし、この3日間は毎日10時間も眠ったのだから大丈夫だと言うに対して、母親は体調の問題ではないと切り捨てた。

「あなたはしばらく謹慎していなさい」
「き、謹慎? どういう事?」

は母親の口から不穏な単語が飛び出した事に驚き、そして少し怖くなった。これまで友達親子として人も羨む関係を築いて来たはずなのに、なぜ突然豹変してしまったのか。血の繋がった肉親でありながら、は母親がとても怖かった。

「神経性胃炎に自律神経失調症よ? あなた、自分が恥ずかしくないの? これじゃあまるで〝頭のおかしい〟人みたいじゃない。ほとんど〝精神病〟よ! 冗談じゃないわ、あなた学校行ってこの間の騒ぎを何て説明するつもりなのよ。あちらにはパパのお知り合いがたくさんいるのよ? その娘が〝精神病〟だなんて吹聴されたらパパの立場がどうなると思ってるの。の娘がそんな病気だなんて、恥ずかしい」

は、母親の言う事が理解できなかった。意味が解らないのではなく、なぜこんな誤った知識をさも常識のように思い込んでいるのか、それが理解できない。神経性胃炎も自律神経失調症も、些細な事がきっかけで万人に起こり得るものだというのに、それがよりにもよって精神病とは。

母親も有名女子大を卒業している位だから、それなりの教養があるとは思っていた。だが、どうだろうか、ここに来てが思い出してみても、母親が真剣に新聞を読んでいたり、ニュースを聞いていたりした記憶がない。彼女が読んでいるのは、いつもファッション誌だ。

父親も、や母親の前では仕事の話をしない。聞かれても、そんな事を知る必要はないと言って話さない。

の母親の知識は、結婚前からほとんど増えていないのだ。

は謹慎を言い渡された事よりも、母親の価値観のほうがショックで何も言い返せずに部屋へ逃げ帰った。そうして始まったの謹慎だったが、それから僅か2日で解除された。がダイニングでの食事を許された晩に、父親が予想外な事を言い出したのだ。

、もう具合はいいんだろう。学校はいいのかい」
「でもパパ、無理はよくないわ」

なんとかしてを閉じ込めておこうとする母親だったが、にとっては天の助けとも言える言葉が飛び出した。に初めて追い風が吹いたらしい。

「それはそうだが、この間の試験、かなり成績良かったらしいじゃないか。いや、今英都で教授をしてる後輩に聞いたんだがね、とても褒めてくれてねえ。体調を崩したのも勉強のしすぎだったんじゃないかと心配していたよ。ただの夏風邪だとは言っておいたけど、具合がいいなら顔を出しなさい」

慣れない環境、孤独なストレスの中でも勉強に手抜きがなかった事が、ここに来て幸いした。勉強に熱心なあまり、体調を崩したと思われているらしい。これでは母親も難癖をつけられない。しかも、具合がいいなら、という前置きがあるが、父親のこの言葉は命令に近い。年の離れた母親は反対できない。

「ありがとう、パパ。明日先生にご挨拶してきます。これからも頑張るね」

はにっこりと笑って父親に言った。