死せる心の果て

02

この頃ではあまりお目にかからなくなった、いわゆる〝ロン毛〟と括れるヘアースタイルに、ざっくり、としか言い表せられないようなシャツの袖をまくったその男は、ぽかんと口を開いたままのを怪訝そうな目で見ている。

人相より先に風体が目に付くにとっては、本来関わり合いになりたくないタイプだった。理由は至って簡単、懐が潤っていそうにないからだ。いくら学生と言えども、こんな手抜きファッションは許せない。ファッションに神経を行き届かせられない人間は、何も大成しない。はそういう持論の持ち主だ。

だが、そんなの持論を他所に、当の本人はぽかんと口を開けたまま、その男を見上げている。一瞬で身に纏うものの値段をはじき出すの特殊な目はきちんと働いたのだが、その結果に反応できない。の基準では安物男となる相手から、目が離せなかった。

「おい、大丈夫か?」

傘を脇に振り払ったまま黙っているに、男は怪しいものをみるような目つきになっていた。だが、男はの傘に手を掛けると、元の位置に戻して雨粒からを遮ってくれた。

「ちゃんと前見て歩き」

そう言って男は去って行ってしまった。は、1本だけ骨の曲がった傘を差してまだ立ち尽くしている。この様子では、前方不注意でぶつかって来たくせに黙ったまま凝視している変な女からは早いところ逃げた方がいいと思うだろう。それでも悪態をつかないだけ相手の男は親切であるようだ。

梅雨だかなんだか知らないが、毎年決まった季節に雨ばかり降らせてはお気に入りの靴を駄目にしてしまう鬱陶しい季節。しかしそれは情緒であり、日本の美しい四季の1つであると思うのが正しい答え。はそうやって自分を騙していた。それがこの時にあって、色を失い崩壊した。

傘を叩く雨音はバチバチと耳障りだし、地面に落ちて跳ね返る雨粒は足首をじめじめと濡らすし、過剰な湿気が入念なセットによる髪も上質な素材の服も全て台無しにする。冷たい雨がを取り巻き、濡れた植物の匂いが鼻を突く。あまりにもリアルな感触に、は肩を震わせた。

の世界はがらりと景色を変えた。

この世界はなんだ。何もかもが良質であたたかでモラルに満ちていたはずだったの世界。それは突然、低俗で冷たくて乱暴な感触をに見せ付けた。汚いもの、臭いもの、うるさいもの。それはに関係のないところにあるはずのものだった。けれど、今は。

〝適度〟に付けたはずの香水がきつく感じる。心臓がドクドクと脈打ち、肘の辺りが僅かに震えている。これまでにない程の足の冷えが痛い。ぽかんと開けた唇の隙間から漏れる呼吸の音ですら、耳にガンガンと響く。

は、傘を持っていない方の手で胸をギュッと掴む。

今しがた男が何やら手を掛けていた方を見やる。ひさしのついた掲示板。ふらふらと覗き込んだの目に、一枚のポスターが飛び込んできた。

《部員求む! 推理小説研究会》

色鮮やかで華麗、かつ適温であったの世界。それは単にの目にそれ以外のものが映らなかったからに過ぎない。目の前に冷たく錆びたがらくたがあっても、という女の目には見えないようになっていたのだ。だが、掲示板にポスターを貼っていたらしい男を見上げた瞬間に、それを認識するようになった。

ポスターはサークルの部員勧誘のものらしい。概要やキャッチコピーはなく、でかでかと、しかもお世辞にも美しいとは言えない文字で見出しが付き、それに続くのは活動場所と思われる《学生会館ラウンジにて》という注意書きのみ。これまでなら鼻であしらっていそうなものだが、は食い入るように見つめた。

私、何も言わなかった。

言えなかった、の間違いだが、はぶつかった相手に対して何も言わなかった事に気付くと、男が去っていった方を向いて顔を上げた。何も言わなかったけれど傘は曲がってしまったのだし、があの男に言葉を掛ける必要はもうないはずだった。それでもは何かに突き動かされるようにして歩き出す。

パシャパシャと足元で跳ねる雨水、は生まれて初めてそれを無視した。

学生会館のラウンジは湿気た空気がムッと篭っていて、息苦しいような気がする。わいわいとそれぞれに盛り上がっている生徒たちは楽しそうだが、うるさいと言えない事もない。はそれにすら頓着せず、ずかずかと中に踏み込んだ。先ほどの男を探す。推理小説研究会とやらはどこだ。

突然ラウンジに現れた、一部でその姿を知られた高飛車東京女を奇異な目が追うが、はもちろんそんな事も気にならない。雫の滴る傘は畳んだだけで片手にぶら下げたままキョロキョロと推理小説研究会を探す。

ピタリと視線が止まる。窓際のテーブルに男4人が顔をつき合せて本を開いていた。ざっくりシャツの肩が濡れた長髪男がいる。間違いない。あれが推理小説研究会だ。

は目標を確認すると、ヒールの音も高くつかつかと歩み寄った。推理小説研究会と手書きで書かれたコピー用紙がぺらりとテーブルから垂れ下がっている。間違いない。その場に仁王立ちになったに、あの長髪男が気付いた。ギョッとしたように目を見開いてから、少し首を傾げる。

「あれ、さっきの……

男の言葉に同席していた男3人がを見上げる。細いメガネと小柄なベリーショート、そしてあまり特徴の無いのを合わせて3人。の特殊な目によれば、長髪の男も含めて4人のファッションを換算すると、〆て5万以下。どう頑張っても1人1万少々という見立てだが、1人分よりも少ない。

だが今はそんな事はどうでもいい。はグッとつま先に力を入れて、ごくりと唾を飲み込む。

「ポスター、拝見しました」
「あ、そう?」

なんだ藪から棒に……という視線の海の中、は痺れる唇で続ける。

「部員は、これだけですか」
「そう、今のところは」

たった4人だけの男だけの、地味なサークル。そんなものを目の前にして、はまるで睨みつけるような眼差しと、丁寧な上から目線で言い放った。

「私、こちらに入って差し上げようかと思っています」

どうやら現役ではないらしい長髪の男は、よりも数倍上手だった。突然現れて偉そうな事を言ったに対して、結果的には上手くかわして軽くあしらった。には勘付かれないよう言葉を選び、あくまでも優しく、静かに。

推理小説研究会だというのにはミステリをあまり読まないと言う。それについて疑問の声を上げたメガネも穏やかにたしなめて、幽霊部員でもいいが、ここは本当に趣味性の強い集まりだから、無理をしないほうがいい、気持ちは有難く頂戴するとして、結局を部員に加えるという明確な言葉は一切吐かなかった。

そんなわけで、の収穫はメガネの発した言葉による長髪男の名前――それも苗字のみ――だけであり、軽くあしらわれて1時間後、しつこく通い続けているシアトル系カフェで無脂肪乳にアレンジしたラテをすすっている頃になってやっと気付いた。

相手にされなかった。

その事実に気付くや否や、はソファの背もたれに身体を深々と沈めてギリギリと奥歯を噛んだ。

せっかく入部してあげようと思ったのに。男ばっかりの集まりに華を添えてあげようと思ったのに。あんなチープな男しかいない中に私が混ざってあげるって言っているのに、どういう事? 何様のつもりよ、身の程知らずが!

――実際、何様の身の程知らずはなのだが、彼女はそれどころではない。1人静かに屈辱に怒りの炎を燃やしているというのに、江神という、あの長髪の男の顔が脳裏に焼きついて離れなかった。まるで淀みのない落ち着いた瞳、形の整った眉、刃で裂いたようにまっすぐな唇、そして柔らかな長い髪。

どう考えても現役ではないような落ち着きっぷりからして、浪人か留年を経ている事になるとなれば、ガイドラインでは既に〝まともな人〟階級からは外れる。しかし怒りと共にどうしても江神の顔が消えてくれない。残りの3人の顔などもう思い出せないのに、江神の顔だけがいつまでもを去っていかない。

その時、ふいに東京の仲良しグループの友人の言葉が蘇る。

「ムカついてるのに忘れられないのは、恋」

ぴたりと静止したは慌ててその言葉を否定する。だが、友人の言葉は江神の顔をバックに次々と蘇る。

「本当に興味ない男なんか記憶にも残らない」
「イライラするほどムカついてても、それだけ気になってるって事」
「ありがちだけど、もう好きになっちゃってるっていうの? 一目惚れ?」

まさか、そんな。私が一目惚れしたっていうの? は膝に置いたハンカチをきつく握り締めた。

考えすぎて頭が破裂しかけたは、帰宅すると食事も取らずにベッドに転がり、悶々とした時間を過ごした後に眠りに落ちた。適当に着替え、化粧も落とさずシャワーも浴びず、日課のメールチェックすらもしないまま、ただ閉じた目に蘇る江神の姿を振り払い続けながら。

大袈裟なようだが、この時点で既ににとっては異常事態であった。

食事を取らないのはともかく、メイクオフもしない、シャワーも浴びない、ましてや適当に部屋着に着替えただけのままで眠るなど、もってのほか。肌にとってよくない事であるばかりか、日中の汚れをベッドの中に持ち込んでしまうなんて、最低の行為だ。

そういうポリシーを持つが異常な行動を起こす羽目になったのは、当然目を開いていても閉じていてもちらつく江神の姿のせいだ。から日常の思考を奪い、彼女にとっては不潔な行いをさせるに至った。

瞬間的に恋をしたという可能性を否定し続けるから、江神が最初に奪ったのは、日常のサイクル、そして、彼女にとって揺るがないはずの、そして偏った鉄壁の常識だった。

真っ白な真新しい壁の部屋にいて、はとても生々しい夢を見る。

泥に手をつき、その濁った色に汚される手を洗いたくて走るが、雨は降るし土埃を含んだ風は吹くしで、はますます汚れていく。真っ白な服と染み1つない肌は汚れ、汗に濡れていくは不快のあまり、大声でわめき散らした。

しかも、やっとの事で探し当てた店には1980円のジーンズと1280円のトレーナーしか置いていない。広々とした店内に、その2種類しか置いていないのだ。床から天井までを埋め尽くす1980円と1280円にはまたもわめく。なんなのこのいい加減なカットのジーンズは、なんなのこの灰色のトレーナーは。

それでも汚れたよりは清潔なジーンズとトレーナー。その上下を着た老若男女が店の中に雪崩れ込んでくる。誰も彼も、足首で少し細くなっているジーンズに、丈の短いトレーナーを着てを蔑んだ目で見ている。我々は清潔な服を着ているのに、なんだこの汚い女は、と目が語っている。

汚いのは天気が悪いのよ、私の服はこんなダサい安物じゃないのよ、汚れてなかったらあんたたちの誰よりも〝まとも〟なのよ、なんなのよ、その目は!

絶叫したの目の前に、すっと現れたのは、江神だった。江神もまたジーンズにトレーナーで、ルックスがいいだけに悲惨な取り合わせになっている。言葉を失うに、江神は優しい笑顔で言うのだった。

「なんや、汚くてダサい女やな」

がくりと深みに落ちた気がしては目が覚めた。夢の通りに、は汗びっしょりで、汚れていた。