凪いだ世界

ちりん、とどこかで風鈴の音のような音がする。

その凛とした響きに火村は煙草を吸い込む手を止めた。開け放した窓の向こうは裾に朱色を残した夕闇で染まっている。風もないのに、どうして風鈴は鳴ったのだろう。いやそれ以前に、あの音は本当に風鈴なのだろうか。

凪いだ空には鋭利な刃を一振りしたような細い月が出ている。白にほんの一滴黄を垂らしたような、きれいなクリーム色だ。月を見上げながら、火村は止めていた手を上げて煙草を深く吸い込む。勢いよく吐き出さずにいると、呼吸に合わせて煙が這い出てくる。煙は静かに漂って部屋の中に溶けていく。

気味が悪いくらい静かだな。

火村は窓の外をじっと眺めながら、耳を澄ます。もう風鈴らしき音は聞こえない。それどころか、往来を行き来する人の声や車の音もまったく聞こえない。町が凪ぐ、とでも言えばいいだろうか。たまたま人足が途絶えて、たまたま車もバイクも通らないだけの事が、まるで時間が止まったように感じられる。

今この世界で時を刻んでいるのは自分の部屋の中だけで、窓の外は時間の滓が張り付いて固まってしまっている――そんな風に。安物のファンタジーじゃあるまいし、と火村は考えて、その陳腐なイメージを消してしまおうとするかのように煙草を揉み消した。潰れた火種が殊更白い煙を立ち上らせている。

火村がこんな風に日常から切り離されているのは、彼の万年床の中に理由があった。

こんもりと山になっている布団の下には、が眠っている。

寝息もほとんど聞こえないほど熟睡しているは、もうかれこれ1時間以上寝返りすら打っていない。火村の枕に深々と頭を沈めたままぴくりとも動かず、まるで死体のように静かに眠っている。実は本当に死んでいるんですよと言われても信じてしまいそうなくらいだ。

そんなを火村が叩き起こさないのにも、理由がある。

は昨夜一睡もしていない。から眠りを奪ったのは、火村。それは何も今が眠る布団で一晩中愛し合ったとか、そんな事ではない。昨日火村が何気なく頼んだ校正をは一睡もしないで仕上げて、その足で届けに来てくれたのだ。当の火村はそんな頼みごとをした事すら忘れて昼近くまで眠っていた。

睡魔と戦う事でふらふらになっているは、そのまま帰したらどこに激突してしまうかも判らない。路上で熟睡してしまってもおかしくないくらいだった。さすがに申し訳ないと思ったのか、少し休んでいけと火村が勧めたのが、確か昼頃だった。

がぱたりと布団に倒れこんでから1時間、火村はタクシーでも呼んでやればよかったと後悔した。だが、ぴくりとも動かないの寝姿には罵声を浴びせる気にはならなかった。仕方なくが校正を済ませてきてくれた原稿に目を通す事にした。それが終わったので、火村は一服しているというわけなのだが、はまだ起きない。

徹夜といっても、いわゆる早朝まで起きていて日の出と共に眠るというのとは異なる。この場合、慣れていれば昼頃にでも起き出せるが、それを超えてしまい、覚醒時間が丸24時間を超過すると徹夜の性質は少し変わってくる。これも同様に慣れればどうという事はないだろうが、は残念ながらほぼ規則正しい生活をしている。

まずだいたい、身体が言う事を聞かなくなってくる。当然睡魔も襲い掛かってくるから、空欠伸ばかりが増えていって集中力に欠く。体質にも因るが、胃が機能低下してしまってお茶すらも受け付けなくなる場合もある。濃いコーヒーなどで紛らわせられる内はまだ元気な方だ。

だからは水を一杯飲むと、倒れるようにして眠ってしまった。

24時間なんてかわいいものだ、48時間を越えると逆に目が覚めるぞ。そんな風に意地悪く言ってやりたいのはやまやまだが、そもそも規則正しい生活をしているに適当な頼みごとをして徹夜させてしまったのは火村だ。完徹明けにたかだか片手で足りるほど眠らせたからといってすぐに回復するというものでもない。

よっぽど熟睡しているのか、は火村が無遠慮に物音を立ててもまったく目覚める気配がない。

原稿の見直しが終わった火村が誤って1度を蹴ってしまったが、それでも起きなかった。ここまでくると、邪魔にも思わなくなっていた。好きなだけ惰眠を貪っていけばいい、そう考えた火村は夕日の落ちた空を眺めながら静かに煙草をふかしているというわけだ。

だがそんな風に過ごす事早1時間以上が経過する頃になると、火村は持て余し始めた。溜まってゆくばかりの吸殻、空になったきり淹れなおしていないお茶、もうほとんど裾の朱も見えない夕暮れ、静寂の中でただ眠り続けるだけの。いつになったら起きるのか、まさか明日の朝まで寝ているつもりではないだろうな。

四つん這いになっての枕元まで移動してみる。特に気配を殺したり物音を立てないように気を使う事はしない。しかしやっぱりは目覚めない。よくよく耳をそばだててみれば寝息が聞こえない事もない。熟睡にもほどがあるぞ。火村は急に全身の力が抜けてしまい、その場に倒れこむ。

そろそろ5時間くらいは眠っただろう、。本当に熟睡できたなら、もう起きられるだろう。いい加減に目を覚ませよ。俺は腹が減った。お前も減っただろう?

声に出す事もなく、火村はに語りかける。そっと指を伸ばして、鼻先まで布団を被っているの額に触れてみる。それでもやっぱりは反応すら見せず、眠ったまま。日が暮れるにまかせて明かりも付けずにいた部屋は紺青に染まって、徐々に視界が奪われていく。

その時、またあのちりんという風鈴のような音が聞こえた。火村は無意識に身体を起こして窓を見る。だが風鈴が揺れているのが見えるわけでなし、相変わらず窓は静かな外界を切り取ったカンバスのようだ。時折ゆるく風が流れ込むだけの部屋で、火村はまたの傍らに倒れこんだ。

ここに置き去りにして、飯でも食いにいこうか。別に防犯上の心配もなかろう。この分なら、1時間やそこら放っておいても起きないだろうから、黙っていればそれを知られるわけでもない。、出かけてもいいか?

もちろんは返事をしない。それが無言の拒否のように感じてしまうのは、きっと静かな夕暮れのせいだ。火村はそう思う事にする。をここに1人置いていくのが、不安なわけじゃない。

なら、さっさと出かければいいじゃないか。何をもたもたしているんだ。

なんだか、面倒くさい気もするんだ。

火村は自問自答を繰り返す。とうとうこの部屋の時間も止まるかというくらいの静寂の中で、火村はそっとの頬に指を滑らせる。その指先からを襲う睡魔が流れ込んできた。と違って十分に睡眠を取っている火村の瞼が重くなってくる。

つられて眠くなってきたのか。でも、どうせ寝るなら布団の上がいい。、どけよ。

腕に力を込めて突っ張り、を転がしてしまえばいい。簡単だ。自分の寝床を奪い返したら、あとはそこにごろりと横たわって眠ってしまえばいい。後の事など知った事か。さあほら、を突き飛ばせ。

面倒くさい、そういう事にしておこう。火村はできなかった。を布団から追い出して放置し、自分がその中に潜り込む事はできなかった。だからそれはただ単に面倒だったからという事にしてしまおう。

それでも撃退できない睡魔に、火村は冷静で正常な判断すらも奪われ始める。

窓も開けたまま、火村はが憩う布団の中に潜り込んだ。もっとも、がすでにあらかたの場所を占めているから、ほんの少しの隙間ではあったが。火村に潜り込まれてもやはり動かないだが、彼女の体温で布団の中はとても暖かかった。眠気が何倍にも増す。

くっついてしまいそうなほどの距離になって初めて、の寝息が火村の頬に届く。呼吸すら最低限になってしまうほど疲れたのだろう。面と向かって起きているには口が裂けても礼など言いたくないが、眠っているなら、それも心の中でなら話は別だ。

火村は心の中で「ありがとう」と呟く。

重い瞼に遮られていく視界には、だけが映っている。火村はの身体に手を回すと、そのまま眠りに落ちた。窓の外では変わらず時を止めたような静寂。すっかり暮れた空に少しずつ星が現れて、ちりん、という風鈴の音でも聞こえてきそうなくらいにきらりと煌いた。

END