パーフェクト・スマイル

この風変わりな友人、火村英生が際立ってわがままだと私は思わない。

確かに奔放なところはあるし、気分屋でもあると思う。しかし年齢だけを基準に考えればもう立派な大人だし、それなりの分別はある。わざわざ立てなくてもいい角を立てるような事はしない。しかしどうもに対してだけは、とてもわがままだ。

が火村に対して好意以上の感情を抱いているから、という状況は明白だが、それにしても火村のわがままは度を過ぎているようにも思える。がはいはいと従うせいもあるが、家政婦じゃあるまいし、と私は思う。無理難題を押し付けて追い払うという目的にも見えないから、なおさらだ。

「煙草切れてたな、買ってきてくれ」
「これ、コピー60部急ぎで」
「15時に荷物が届くから受け取っておいてくれ」
「昨日蛍光灯切れてた。取り替えておいてくれ」

数え上げるときりがないのだが、後半2つなどはどう考えても「そのくらい自分でやれ」という類のものだ。しかも、部屋の蛍光灯は当然天井についているものなのだから、より背が高い火村がやった方が早いはずだ。わざわざ脚立の上でよろよろするようなに任せる必要はない。

しかしは文句1つ言わず蛍光灯を取り替えるし、自分の予定を曲げても15時に荷物を受け取る。

それに対してつい私が苦言を呈すると、火村はともかくまでがなんでもないというような顔をする。

「特別大変な事でもありませんからね」

そういう今もは火村の傍らに跪いてボタンの取れてしまった袖口に針を通している。

「だからって……は召使でもなんでもないやろう」
「そりゃあもちろんそうですよ」

は召使のような扱いは受けていないとでも言いたげだ。このぼんやりした女が異常なまでの献身体質なのかそれとも単に鈍いのか、私は判断しかねた。

「そう、拒否したっていいんだ。報酬を与えているわけでなし」

火村はそう言うが、それでは召使通り越して奴隷ではないか。の好意にどっかりと胡坐をかく、端的な表現を用いるなら「男らしくない」態度と考えてしまう私の頭は固いのだろうか。少なくとも両者の間で合意があり、そこに精神的な部分も含め問題がないのなら他者が口を挟む事でもないのだろうが、しかし。

「まあ、余計な事は言わんようにするけど……たまには労ってやったらどうや」
「労ってほしいのか?」

提案をしたのは、私だ。それをこの若白髪はに質問で反射してしまった。

「まさか、そんな事思ってませんよ」

そう言うに決まってるじゃないか。これ以上突付いても埒が明かない。もう首を突っ込むのはやめよう、とようやく肚を決めた私は、の淹れてくれたお茶を飲み、手ずから用意してくれた食事を頂いて暇を告げると火村の部屋を出た。すると、その私の後をが追って出てきた。

……泊まらないんか?」
「一度も泊まった事はありませんよ」

車のドアにキーを差し込もうとしていた私はに声をかけ、無意識にそんな事を聞いてしまった。失言だったかもしれないと息を呑む私の目の前で、しかしはやはり事も無げに否定した。いじらしいのを通り越して少しイライラする。それでも同情してしまうのは失礼だろうか。

……もう遅いし、送っていくよ」

助手席を指差した私に、はぺこりと頭を下げて礼を言った。

静かな車内で、どうにも会話に詰まっていた私には落ち着いた様子で切り出した。

「アリス先生、さっきの事ですけど」

は火村を先生と呼び、私の事はアリス先生と呼ぶ。

「私、本当に辛いとか思ってないんですよ」

まさか蒸し返されるとは思っていなかった私はやはり言葉に詰まる。こんな風に念を押される事自体、その言葉の裏には負の感情がある証拠なのではと勘繰りたくなる。もっとも、私とにはろくに会話の種がないから、と言えばそれはそうなのだが。

「アリス先生は優しいから……心配してくれてるんでしょうけど」

は口元にゆるい握りこぶしを当ててクスクスと笑っている。

「心配と言うか……余計なお世話やな、たぶん」
「そんな事ありませんよ、労ってやったら、って言ってくれて、嬉しかったですよ」

それは労ってもらいたいという願望があるからなのか、それとも――の言葉には裏があると決めてかかっていた私が返事もせずに黙って考えていると、はいたずらっぽい声で言った。

「でも、労ってもらわなくても大丈夫です。そのうち解りますよ」
「え、どういう……
「だから、そのうち解ります」

ちらりとに視線を向けてみると、彼女はにっこりと笑っている。私はその完璧なまでの笑顔に少しだけ寒気を感じた。女という生き物はたまにこんな風に恐ろしい表情をするのだ。

私はの言う「そのうち」をしばらくするとすっかり忘れてしまって、いつもの日常の中に埋没させたまま掘り起こす事もなく過ごしていた。だが、「そのうち」が訪れて初めて私は思い出し、の言葉とその意味を同時に知ってまたも戦慄する羽目になった。

が風邪をひいたのだ。

それも初期症状の間に手を打ち損なって、悪化した風邪だ。人間生きていればこんな事もあるだろうが、さてが床に伏して困ったのは火村だ。日常の面倒な瑣末事をに丸投げにしていた火村は苛ついている。書類が見つからない、消耗品が突然切れる、任せにしていた雑務が彼に全て跳ね返ってきた。

もちろん元々は全て自分でこなしていた事なのだから、火村に出来ない事ではない。だが、にわがままを言う事で開放されていた雑務は思ったよりダメージを与えているらしい。とうとうを見舞う運びとなった。それに私が同行する謂れはないのだが、なぜかくっついていく事になった。

「ごめんなさい、週末を挟んだので病院に行き損ねました」

少し嗄れた声では言う。ふらふらの状態でドアを開けてくれたを早々にベッドへ戻した私は差し入れのお粥のパウチをキッチンで開ける事にして、火村をベットサイドに残らせた。2人きりにさせてやりたいのは山々だがの部屋はそこまで広くない。盗み聞くつもりはないが、耳には入ってしまう。

とは言っても火村の事だから、ころっと態度を変えてを労わり優しい言葉をかけるとは思えない。そこまでは私も期待していないし、そんな言葉をかけられたらだって気味が悪いだろう。

「ええと、あの書類はグリーンのフォルダーに入ってるはずです」

やはりな、と私はパウチの中身をボウルに開けながらこっそり頷いた。

「それと、不在通知が2通ありました。連絡できなくてすみません」

だが病人にこんな事を言わせるのはやはりどうかと思う。が勝手に言うとしてしまえばそれまでだが、それにしたって。上司と部下でもあるまいに。私も私で勝手に憮然としながらボウルを電子レンジにかける。

「それで結局病院は」
「それが、休診日が明けた時にはもうこの状態で」

私が連れて行く事になるんだろうな。くるくると回るボウルを見つめながら、私は考えていた。火村は行けと言うだけ、はそうしますと言うだけ、でも現状それはかなわない。が1人で診察を受けられるようになる頃には、あらかた自然治癒してからでないと無理。まったくの無意味だ。

「今日はアリスの車で来てる」

ほーらおいでなすった。はいはい、そのくらいお安い御用ですよ。

「一緒に行ってやるから、病院行け」

何!?

私はやっとの事で探し当てたスプーンを取り落とす寸前で踏み止まった。火村お前、今なんて言った?

申し訳ないと思いつつ、好奇心に勝てない私はそっと首を伸ばして2人を覗く。キッチンに背を向けている火村の身体が邪魔をして2人の表情こそ見えないが、私はしっかり目撃した。ぐったりと伸びているの手を火村がそっと握っていた。見てはいけないものを見ているような気がしてならない。

そんな後ろめたい気持ちでいたせいか、私は電子レンジが鳴らした音に飛び上がり、またスプーンを落としそうになった。慌てて2人に背を向け、そそくさと水の用意をする。見てません見てません。

……風邪なんか、早く治せ」
「はい」

かすかに聞こえるの声には、これまでにない満ち足りた響きがある。温まったお粥と水をトレイに乗せてキッチンを出た私を察してか、火村はの手をさっと開放してベランダに逃げた。一服するという建前で逃げたのだろう、煙草を取り出すその後姿がやけに小さく見える。

「アリス先生もすみません」
「気にせんでええよ、こんな時くらい甘えたらええ」

身体を起こしたを支えて膝にトレイを置いた。足元に投げ出してあったカーディガンをかけてやると、はベランダの火村を一瞥して、私に向き直った。

「ね、私の言ったとおりだったでしょう」

はややだるそうにしながらも、また完璧な笑顔でにっこりと笑った。

私はその笑顔におののき、そして火村に少しだけ同情した。火村、心を食われたな。

END