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「先輩って、『諦めない男』だったんですか?」

背後から聞こえてきた声に三井は返事をしなかった。その代わりに滅多なことでは外れないシュートがやや軌道を逸れてリングに当たり、ボールはくるくると回転してからようやくネットに落ちていった。一応入ったので動揺して外れたということにはしない。

「オレ、そんなこと言ってないはずだぞ」
「そりゃそうですよ、マネージャーのええと、彩子ちゃんに聞いたから」
「くそ、お喋りめ」

悪態をつきながらボールを拾いに行った三井は、声の主に視線を向けることなく定位置に戻ると、また姿勢を正してフォームと呼吸を整える。音もなく放たれていったボールは、今度はシュパッと軽い音だけを残して床にバウンドする。

その背後でちょこんと首を傾げているのは三井よりひとつ年下の。中学が同じで家も割と近くてでかれこれ付き合いは5年に及ぶが、三井の基準で言えば友人ですらない。中学と高校に分かれた時に空白期間があるし、先輩と、それを追いかけ回している後輩、という状態。

今も三井の早朝練習を狙って部員でもないのに体育館に座り込んでいる。

「おかしいですね、私が高校に入学した時先輩は完全に諦めてて」
「うるせーな」
「諦めないってことなら、私の方が上だと思うんですよね」
「お前のはただしつこいだけだろ」
「それを諦めないって言うんでしょ」

またボールを拾いに行った三井はため息をついて肩を落とした。確かに彼は一度何もかもを諦め、放棄した。対するはこの5年というもの、一度たりとも諦めたことがなかった。それは他でもない三井が一番よく知っている。

何しろ、この5年の間にから何十回と告白されている。

そしてそのたびに断っている。理由は様々、いつも同じではなかった。

それでもはしばらくするとまた何事もなかったかのように現れて三井にまとわりつき、気が済むと「好きだから付き合ってくれ」と言う。最近では三井はもうきちんと理由を述べて断ることはせず、何を言われても「はいはい」と聞き流すようになっていた。

「でも、高校入って先輩がイメチェンしてたときはさすがに心が折れそうになった」
「イメチェン言うな。そのまま折れりゃよかったのに」
「先輩が眉毛全剃りのピンクのモヒカンにでもなってたら折れたかもしれないけど」

はふざけて「エヘッ」と言いながら肩をすくめた。

は中学の時から三井を追いかけ回しているわけだが、彼を追いかけるようにして高校に入学した時、快活で優秀なバスケット選手で学校のアイドルだった大好きな先輩は見るも無残なヤンキーになっていた。だが、不幸なことに三井はその不貞腐れた顔を隠すように髪を伸ばしていて、自前のサラサラヘアーはろくに手入れもしていないのにツヤツヤの黒髪で、要するに、は「これはこれでありだな」という結論に至った。

「それに先輩はあんなクソヤンキーになっていたというのに、私をどうしても無下に出来なくて」
「ほんと、後悔してるよ」
「先輩は壊滅的にヤンキーの才能なかったんですよ」

まともに相手をすまいと思うのだが、三井はのその言葉につい吹き出す。

を無下に出来なかったのは、彼にとって彼女がこの世界で唯一「変わらないもの」だったからだ。三井がの言うような「クソヤンキー」になってしまってから、彼を取り巻く全ては驚く暇もないほど簡単に変わってしまった。家族ですらも変わってしまった。

だが、心が折れそうになっていたことなどまるで気付かなかったくらいに、は変わらなかった。彼女はいつでも三井をうっとりとした目で見つめつつ、しかし減らず口であれこれツッコミをし、そして最後には思いの丈をぶつけてくる。

そういう彼女に対して身構え、心を閉ざし、感情を尖らせる気にならなかった。

そこには面倒くさいとか、意味がないとか、こいつにそんなカッコつける労力がもったいない……なんていう怠惰な気持ちがあったことは確かだ。それに、睨みつけて肩をどつき、二度と近寄るなと言ったところで諦めないだろうし、というある種の「諦め」もあった。

どうせ何を言ってもやってもこいつはオレのことが好きなんだろうから。

そしてまた、こうして具体的に言葉にしてみると、こそばゆいながらも少しだけ気分がいい。

告白は毎度毎度簡単にあしらって断るのだが、なぜかその日の夜だけは気持ちが浮ついてしまう。ひとりの女が5年間も思い続けるほどの魅力を自分は持っている――なんて思ってしまってはその考えを振り払う。そういうことじゃない。オレは実際かっこいいかもしれんけど、あいつがしつこいだけだ。

そしてつい脳内で「もしと付き合ったらどうなるんだろう」などと考えそうになっては、慌てて違うことを考える。それは考えてはいけない可能性だ。

なぜなら三井はこれまで一度もを「いいな」と思ったことはなかった。

自身はまあ、悪くはない。三井の感覚で言えばそこそこ可愛い女子と言えるし、中学からだが幼馴染のようなものだし、プライベートで一緒に過ごしたことはないけれど、まとわりつかれ続けた5年間の間に彼女の言動に嫌悪感を抱いたことはなかった。

だがそれとこれとは別じゃないだろうか、というのが三井の理屈である。

それに、また季節が巡って春になれば学校が離れる。紆余曲折を経てなんとかバスケットで進学できることになったので、三井は春から大学の寮に入るし、はまだ目指す進路が決まっていないと言うし、障害が多い気がする。すぐに破綻するくらいなら付き合わない方がいい。時間の無駄だ。

しかしそうやってダラダラと脳内で御託を並べてみても、結局最後には「でもあいつ、諦めないんだろうな」と毎度同じところに着地する。は三井に恋することに飽いたりはしない。この様子ではまた先輩を追いかけて同じ大学を受験すると言い出すのではなかろうか。

これといった目標や趣味もないようだし、きっとあいつはオレだけが全てなんだろうから。

3年生の夏を過ぎてからこっち、三井はから恒例の告白を受けるたびに思うようになっていた。告白された日の夜、ウトウトと眠りに落ちそうになる瞬間に、いつも思う。

もしあいつが大学まで追いかけてきたら、1回くらいは遊んでやってもいいかもしれない。付き合うとかは出来なくても、メシ食うとか、買い物するとか、そのくらいなら。あんまり調子に乗らせると面倒だから、1回。1回だけな――

「先輩先輩、これまで私が何回告白したか知ってます?」
「いちいち数えてねえよ、そんなこと」
「48回です」
「お前さらっと言うけど異常だぞその数字」
「でも先輩年明け自由登校に入ったら絶対学校来ないですよね」
「聞けよ」

本日も早朝練習にやってきたと思ったら、が待ち構えていた。このところ少し風が冷たくなってきたので、は三井に温かいお茶のペットボトルを投げて寄越すと、勝手に着いてきた。

「今10月も下旬だし、そしたらあと2回くらいしか告白出来ないと思うんですよ」
「その2回もいらんけどな」
「そしたらちょうど50回じゃないですか」
「聞けっつってんだろ」

何も考えずにツッコミを入れながら、三井はしかし50という数字に驚いていた。もうそんなになるのか。これまでの48回の内容はほとんど覚えていないけれど、5年間に及ぶの諦めない姿勢をちょっとだけすごいと思ってしまった。

例えば自分のように運動部なら、どんなに弱くてもたまには勝ったりすることもあるだろう。努力はいつか実を結ぶかもしれないし、指導者が変わるだけでチームが生まれ変わることだってある。そこには可能性という名の希望がたっぷりある。

だが、5年間彼女が抱き続けてきた恋心には、そういう希望がまるで存在しなかった。

三井はを無下にしなかったし、こうして好きなようにまとわりつかせているけれど、それでも誰が見てもの片思いは成就の望みがなかった。それでもは三井に思いを伝えることを諦めたりはしなかった。

そんな彼女の強さを羨ましいと思った。

「それで、先輩地元も離れちゃうじゃないですか。また離れ離れ」
「ああ、まあな」
「だから50回、きりのいいところでやめようかと思うんです」
……えっ?」

つい足を止めて振り返ると、はペットボトルを両手のひらに挟んで転がしながら、三井を見上げていた。まだ幼さの残る少女だった頃からずっと知っているはずのが、まるで見たこともない女性に見えてくる。そう、彼女の目はいつものようにうっとりとしていなかったから。

48回の告白の内容なんか覚えていないけれど、そのたびに自分をうっとりと見上げてくる潤んだ瞳は覚えている。いつでもは「大好き」と書いてありそうな瞳を向けてきていた。けれど今、は潤んでもいない落ち着いた目をしていて、三井は背筋が少しだけ冷たくなった。

「まあ残りの2回もいらねえって今も言ってましたけど、そこはちょっと我慢してもらって」
……大学まで、追いかけてくるのかと」
「あーっ、それずっと考えてたんですよね」

が隣に並んだので、三井は引きずられるようにして歩き出す。追いかけてこないのか……

「ランク的には来年しっかり頑張れば充分行かれると思うんですけど、ちょっと今考えてる進路に合わなくて。親はなぜか専門だと思ってたらしくて、しかもふたりとも大学受験経験なくて、まあうちもそこは今悩んでるところで。でも先輩を追いかけて行くことはないと思います」

例えそこに大好きな先輩がいても、目指す進路に合わないから。

三井は頭が重いような気がして、つい俯いた。こいつ、オレより自分の進路を取るのか。

は絶対に諦めないと三井は信じ切っていた。三井を思うことが彼女の全てで、三井以上に大事なものはなくて、何より優先されるものだと思っていた。けれどは48回も先輩に告白し続けたとは思えないほどに至極真っ当な選択をした。

自分の将来のために、自分のための道を選んだ。そこに大好きな先輩はいなかった。

「まあ、そういうわけなんで、あと2回です。最後は引退後ですかねえ」
「引退……
「いや先輩、冬の大会終わったらいい加減引退してあげましょうよ」

はニヤニヤと笑いながら三井を追い越していく。

諦めない女が最愛の先輩を振り返ることもなく歩いていってしまった。

50回も続けてきたのに、諦めるのか。彼女をここに残して旅立っていくのは自分のはずだったのに、あいつは笑いながらオレを追い越していくのか。

何があっても揺るがないと思っていたの言葉がどうしてか、いつまでも三井の頭にずっしりと重くのしかかっていた。いつまでも変わらないと思っていたのに。は何度断っても永遠に自分を愛してくれるのだと思っていたのに。

49回目の告白は予選の最中だったこともあって、先輩も忙しいでしょうから簡単に済ませてあげますね! などと前置きをされる始末。それでも予選の必勝祈願です、とキットカットの大袋を手渡しながらいつものふざけ半分に見えるおどけた仕草で「せんぱ〜い、付き合ってくださ〜い!」と言った。

それをどう返そうかと三井が逡巡している間には次の予選の試合はいつなのかだとか、本戦に出場になったらいつなのか会場はどこなのかと畳み掛け、それらをメモするとすぐに立ち去ってしまった。三井は両手に乗ったキットカットの大袋を見下ろしながら、しかし頭を振って考えを締め出した。

今は予選に集中しなきゃならないんだから、余計なこと考えるな。泣いても笑っても冬の大会で自分の高校バスケットは終わる。そうしたらの50回目の告白も来る。年が明ければ学校にも来ない。入寮の準備や教習所にも行かねばならない。激動の高校生活は終わる。

どんなに抗ったとしても全て終わり、やがて過去になっていくのだ。高校も、も、何もかも。

――と、ずっとそういうものだと思ってきたのに、高校最後となる公式戦の予選で敗退し、追い出されるようにして引退した途端、それを疑問に感じてきた。本当にページを捲るように一瞬で何もかもが過去のものになってしまうんだろうか。

新しい環境に順応しようと慌ただしく過ごしているうちに、気付いたら身の回りの全てが過去と現在に入れ替わっていた――そういうことの繰り返しだということはわかっている。中学から高校の時でさえそんな感じだった。今度も必ずそうなると?

もちろん生活環境は変わる。学校が変わるだけで学生の生活は一変するのだし、それは変化だけれど、オレは大学に入った途端、また「イメチェン」みたいにして変わってしまうんだろうか。

それが、自分を無理に捻じ曲げてしまうことがどれだけ苦しいものか、ということは身を持って知っている。環境への順応と、自分を偽って周囲の空気に馴染むふりをすることは同義ではない。

そして「過去」はそういう日々の中にポイッと捨てていけばいいもの――だろうか、本当に?

マネージャーふたりから手渡された餞の花束は自分にはあまりに不似合いな気がした。入学早々心が真っ二つに折れてしまって、の言うように完全に諦め、それをまっすぐに戻すのに2年かかった。餞の花束を受け取るようなことが出来たかどうか、それはあまり自信がない。

諦めなかったのは、餞の花束を受け取る資格があるのはむしろ――

「あっ、先輩はっけーん!」

部室棟を出て体育館の壁際でぼんやりしていた三井が振り返ると、見慣れた顔が指を差していた。制服姿に肩にバッグを引っ掛けただけ、引退した先輩に贈り物を用意している様子もなく、いつもとまったく変わらないだった。

「すごい花束! 高そう。私そういうの用意してないんですけど」
「別に、そんなの」
「まあ私から花束が出てくるとは思ってないですよね」

対する三井は「いつものように」ポンポンと切り返す言葉も思い浮かばなくて、少し息苦しさを感じた。が現れたということは、50回目ということだ。これがとの別れ。

「というわけでお察しの通り私から出てくるのは、いつものやつです。コホン」

いつもののはずなのだが、どうにもその声は淡々としていて、それも息苦しい。

「改めまして、先輩、私、先輩のこと大好きなんです」

そう言う彼女の目はやはり、もううっとりと潤んではいなかった。