君がくれたもの、
君に贈るもの

これと言って、劇的な出会いやら、すったもんだ揉めた挙げ句に神奈川の沿岸部で愛を叫ぶみたいなドラマチックなエピソードはなかった。

と藤真健司は高校時代に同じクラスになったことで知り合い、しかし高校時代は特に親しくすることもなく終わり、付き合うようになったのは卒業してからだった。その時も「付き合おっか」「そだね」くらいの非常に軽いやり取りだけで、心が叫びたがったりはしなかった。

藤真の方は本人のスペックが派手なので目立つ人物であり、そのためは何かというと心無い言葉を投げつけられたりしてきたわけなのだが、そんな外野の妬みをよそに、ふたりはそのまま社会人になっても交際を続けていた。

というのも、スペックが派手で目立つ藤真本人はそのきらびやかなバイオグラフィーに反してとても生真面目で努力家という性格をしており、不埒なことは生来苦手。

それでも見目麗しく優秀なバスケット選手である藤真を享楽の世界に引きずり込もうという誘惑はずっとあった。さあ思う存分天狗になるがいい! という環境に身を置くしかなかった藤真だが、鼻が伸びずに済んだのはひとえにがいたからだ。

バスケットのことだけに集中していたいのに外野はうるさいしバスケット関係ないところで褒められても何も嬉しくないし、という日々のストレスを癒やしてくれるのはだったし、誰にどんな応援の言葉をかけられるより、の「健司なら絶対勝てるよ!」の一言が励みになった。

それに応えるように藤真は大学を卒業後プロチームへの入団が決まり、本人の性格に反して環境はますます派手になっていった。何しろ顔がいいのですぐに注目されてしまう。

さしものもその時ばかりは、そんな派手な世界にいたら浮気されそう、としょげていたので、藤真は改めてそういうつもりはない、浮気は絶対にしない、と固く約束をした。

そもそも、浮気をするしないの問題ではなく、彼女に隠れて他の女と火遊びをしてバレないように振る舞いながらまた別の女と……なんていうのが心底面倒くさい、というのが藤真でもあったので、そこはの取り越し苦労だったのだが、まあ可愛らしい不安ではないか。愛されている証拠だ。

藤真はそんなことしないよ、という約束の証として自分の名を記入済みの婚姻届をに手渡し、これでオレを束縛していいから、と言っておいた。はいきなり飛び出てきた婚姻届に笑いつつ、新婚旅行はイタリアに行きたいから稼げる選手になってね、と言ってくれた。

その時にが頬にしてくれたキスの感触を思い出したのは、10月のことだった。シーズン中にも関わらず利き手の指を痛めてしまい、藤真は試合に出場できない日々が続いていた。

まさか指の怪我だけで今後永久にバスケットが出来なくなるわけではもちろんないのだが、幸いにも大きな故障とは無縁で来た藤真の脳裏に「引退」の二文字がつい横切った。テーピングでぐるぐる巻きの自分の左手を眺めていたら、あの「約束の証」を思い出したのだ。

プロのバスケット選手というのは子供の頃からの夢だった。

目指していたのはそこだけ、他のどんな選択肢もプロ選手に比べたら霞んで見えたし、魅力もなかったし、目の前にある目標とは別に、常に遠く向こうに見据えてきたものだった。しかしそれは叶ってしまった。現実のものになった。

そして利き手の指を怪我して始めて、プロ選手を引退したあとの長い長い日々のことを考えた。引退がいつになるかはわからないけれど、それは必ずやって来るものなのだと改めて認識させられた。

その時真っ先に浮かんできたのは、再就職だとかそんなことではなく、のことだった。

相変わらず誘惑の多い日々ではあったけれど、やはり藤真はと別れるつもりもなければ、むしろ今更他の女に乗り換えるなんていうことはまったく現実的ではなかったし、と関わりのない人間になってしまうのは嫌だった。

藤真はその傷んだ指を見て、ひとつ心を決めた。

もう一度「約束の証」をに贈ろう。まだ自分がバスケット選手である間に。

12月23日の祝日には試合が入っていた。藤真の指はすっかり快方に向かい、試合にも戻れるようになっていた。なので、翌24日は休みだったのだが、急遽チームの本拠地近くにある病院の小児科へサンタクロースの扮装をしてプレゼントを配りに行くというボランティア活動が舞い込んできた。

そのため、との約束だった18時にはギリギリ滑り込み、すっかり冷え込むようになった真冬の日没後だというのに藤真は汗だくになっていた。自分で予約した店に彼女呼び出しておいて遅刻は最悪にかっこ悪い。

「ご、ごめ……
「そんなに焦らなくても。言ってくれればお店に電話しておいたのに」

肩で息をしている藤真に対して、今日もはゆったり余裕の笑顔だ。

のことをよく知らない人々は、藤真のハイスペックと比較して地味だとか普通だとか勝手なことを言うけれど、少しでもふたりのことを知る者は「の方が何枚もうわ手。藤真は釈迦の手の上の孫悟空みたいなもの」と言って笑う。

藤真は孫悟空ほど暴れん坊ではないわけだが、まあそういうわけでこの日も遅刻寸前だった藤真に怒るでもなく、はにこにこと迎えてくれた。

「ほっぺたに何かついてるよ。何これ」
「えっ? ああ、さっきまでサンタのヒゲつけてたから」
「サンタさん、またうら若いお嬢さんをドギマギさせてきたんでしょ」

くすくす笑いながらは藤真の頬から抜け落ちた白い付け髭をつまみ取る。図星の藤真は苦笑い。懸命に闘病している子供たちにプレゼントを届けに行くのはいいのだが、ヒゲをつけていてなお、女の子にプレゼントを渡そうとするとお父さんやお母さんの後ろにサッと隠れられてしまう。

無理もない。ヒゲはあるが、どう見ても背が高くサンタ帽から薄茶色のサラサラヘアーがこぼれるきれいな目のお兄さんである。稀にそんな素敵なお兄さんは大歓迎! とハグをしてくれる女の子もいるけれど、今日はほぼ全滅、照れてまともに握手もしてもらえなかった。顔がいいのも良し悪しだ。

「でもきっとその女の子たちはそういうとき、ちょっとだけ病気のこと忘れられるんじゃないかな。女の子ってほんの小さなときからずーっと女の子だから、サンタの健司にドキドキしちゃうし、そういう瞬間があるって、大事なことだよね」

たまにこうしたの「物分りのいい彼女」に若干の不安を抱く藤真であったが、それでも付き合い始めて早数年、彼女とは様々な「基準」が近くて、許せること許せないこと、笑えること笑えないことといった価値観がほぼ同じ。大きな喧嘩も深刻なすれ違いもなかった。

指を怪我した藤真は自宅のベッドに横になってぼんやり考えていた。

円満な関係を続けるには言いたいことを言い合ってたくさん喧嘩すること、とアドバイスしてくる友人がいたけれど、そう言いながら罵り合いの大喧嘩をして死ねと吐き捨てて別れていたので、これっぽっちも信用していない。

とは、「なんとなく合う」のだ。だから言わなくてもいいことをわざわざ口に出して諍いの種を作る必要もないし、お互いのプライベートはきちんと守り合ってるし、少なくとも藤真はをかわいくて愛しいと思っているし、そういうポジティブだけを拾っていくと、きりがないくらいだ。

これは、いけるんじゃないだろうか。

そう思った藤真は素直に指輪を買いに行った。ジュエリーショップなんて女性ばかりで買いづらいだろうかと思っていたら、男性のスタッフが最初から最後までつきっきりで担当してくれて、納得の行くものを買うことが出来た。

というか藤真は婚約指輪と結婚指輪は同じものではないということをここで初めて知った。ついでにジュエリーというものは想像以上に高価だということもよくわかった。数万くらいかなと考えていた藤真は会計の時に変な汗をかいていた。

自分でも6桁の買い物なんかほとんどしたことない……と若干ビビっていた藤真のポケットには、その6桁と引き換えに手に入れたダイヤの付いたリングが隠れている。不思議なことに銀色なのに薄っすらピンクがかって見えるのが気に入って、想定予算の5倍以上してしまったけれど、買っちゃった。

喜んでくれるかな。喜んでくれるだけじゃなくて、その意味、わかってくれるかな。

もちろんあとはお察しくださいで済ますつもりはないのだが、指輪を差し出す意味を一瞬で感じてほしい。そのためにありとあらゆるコネを総動員して個室のある店を押さえた。

自分たちは平穏なカップルだけど、こんな時くらいドラマチックになったっていいよな。

、喜んでくれるかな――

食事が終わったので、藤真はあまり畏まり過ぎないようにしながら、の名を呼んだ。

「プレゼント、あるんだけど」
「それがさ〜! 私もあるんだけど、たまたま在庫切れちゃって間に合ってないの! ごめん〜!」
「えっ!? あ、そ、そうか、ありがとう」
「でも26日には届くって言ってたから、私が届けに行っていい?」
「ああ、もちろん、うん」

普通にクリスマスプレゼント交換だと思ったようで、は今日に間に合わなかったことを手を合わせて謝ってくる。決意のプレゼントで緊張していた藤真は出鼻をくじかれて苦笑いだ。落ち着けオレ、クリスマスプレゼントなら別に毎年やってきたし、今年を特別なものにしちゃったのはオレが勝手にやったことだろ。はい深呼吸深呼吸。


「てか交換できないから、プレゼントは私が届けに行くときにする?」
「えっ!? いや、いいよ別にそんなの」
「こらこら、別にそんなのって欲しくないのか」
「いや違っ……

焦る藤真、笑う。いかん。これではせっかくのエンゲージメントリング・ザ・6桁が!

!」
「えっ!?」
「これ、受け取って欲しいんだけど!」
「なに、どうし――

藤真の剣幕に背筋をピシッと伸ばしていたはそのまま固まってしまった。ゆったりと暖かな色あいの照明に照らされて、ダイヤモンドがきらきらと光る。少しピンクがかったリングに電球色の明かりが混ざりあって、金色と銀色に光り輝いて見える。

「きゅ、急にごめん、だけど、そろそろっていうか、もういいかなって」

準備も含めれば実際に新しい暮らしを始めるのは何ヶ月も先のことになろう。それを考えても、今このタイミングでエンゲージメントリングを贈るのは決して早くないはずだ。肝心の気持ちの方なら、本音で言えばを信じている。きっと頷いてくれるはずだと。

、さん。なんか既にいっぱい迷惑かけてるしオレそんなに出来た人間じゃないけど」
……うん、結婚しよ」
「そう、結婚――早! 言い終わってない!」
「早くない……何年待ったと思ってるの……
「えっ、そうなの!?」
「じゃあひとまずこれをクリスマスプレゼントということに……はい、あげる」

頑張ってプロポーズしようとしていた藤真はまた途中で話をポッキリ折られて情けない声を上げた。何年も待ってたってどういう意味だよ。するとはやけにニヤニヤと口元を緩めながらバッグを取り上げ、中から何やら紙切れを取り出してきた。

いつか藤真が浮気しませんの証として渡した婚姻届であった。

「何で持ってんの!?」
「持ち歩いてた」
「持ち歩いてた!? あれからずっと!?」
「だってたぶんひとりで考えて思い詰めていきなりプロポーズしてくると思ってたから」
「なんでわかるの!?」
「健司の考えてることくらい、わかるよ〜! ずっと一緒にいるんだもん」

思いっきり図星を指されて上ずった声を上げた藤真はしかし、自分の分が記入済みの婚姻届の傍らにある指輪をつまみ上げて、の左手の薬指に嵌めた。よく似合っている。

「よし、かわいい」
「うん、めっちゃかわいい」
「オレものことわかってるからな」
「そうかな?」
「えーと、そうだ、オレへのプレゼントって、靴だろ?」
「ブー。走る時に使うワイヤレスのイヤホンです」
「あー! そういえば壊れてた! うわ、その、助かります……
「ちなみに限定色。在庫なくて聞いてみたら別の店舗から取り寄せ出来るらしくて、それで明後日に」

そういえば、イヤホン壊れたから買わなきゃいけないんだけど、ついつい忘れてる……ということを今月に入ってからちらりと話した。確かに困ってた。今一番「買わなきゃならないもの」だった。

完敗の体の藤真にニヤニヤしつつ、はテーブルに肘を付き、両手で頬杖をついた。

「私ねえ、高校の頃、健司のこと嫌いだったんだよ」
「えっ……
「バスケ上手くて女の子にキャーキャー言われて、成績も悪くないし、ずるいって思ってた」

高校で同じクラスだった時も、藤真は女の子にキャーキャー言われっぱなしだった。周囲の女子の7割方は藤真ファンだったと言っても過言ではないのではないだろうか。はたまたま残りの3割に該当する女子だったわけだが、それはちょっとした「嫉妬」であったらしい。

……だけどね、3年の時インターハイ行かれなかったでしょ。あの時、実は結構健司たちのこと陰口叩いてた子ってたくさんいて、藤真は好きじゃないけど手のひら返しはもっと最悪だなと思ってたのね。で、覚えてるかな、テスト休み、職員室近くの廊下で健司私とぶつかったでしょう」

それは覚えている。藤真はきょとんとした顔のまま頷いた。藤真は合宿の書類を手に職員室から出てきたところ、は職員室に向かうところだった。が階段を上がってきて廊下に出たところで、ぼーっと歩いていた健司と衝突、書類が宙を舞った。

「その時近くで健司の顔見たら、あれ、これまだ立ち直れてないのかなってくらい、沈んだ顔してるように見えたのね。それでつい、大丈夫? って聞いて……

当然藤真はぼーっとしていて衝突してしまったことを心配されてるのだと思った。だがそうではなくて、はまだ予選で負けたことがつらい? と聞いてきた。

「健司、ものすごくつらい、って、即答だった」
「そ、そうだっけ……
「そこまでは覚えてないでしょ」

ぶつかったことは覚えているけれど、何を話したかまでは覚えていない。付き合う前だし。

「それでつい私も『元気出して、次は勝てるよ』的なことを言ったんだよね。そしたらさ、ペコッと頭下げて、言うんだよね。ありがとうって。今すごくしんどいから、そういう風に言ってもらえるの嬉しい、自分たちが負けたのは偶然じゃなくて、絶対なにか足りないものとか間違えてたことがあったと思うから、ゼロからやり直したいんだって、サラッと言うの」

そんな会話にはなんとなく覚えがあった。藤真にもこの時「同じクラスのは優しい人だ」というイメージが生まれていた。だからのちのち好きだなと思えたわけなのだが……

「別に私が一方的に『藤真ってやなやつー』って思ってただけなんだけどさ、その時自分が醜い嫉妬で健司のこと嫌なやつだと思ってたことに気付いてさ。しかもこの人負けてしんどいのに自分たちを見直していこう、ゼロからやり直したいって、私みたいな人にも真面目な顔で言える人なんだ、って思ったら、健司みたいな人になりたいなって、思ったんだよね。普段チヤホヤしてるくせに負けた途端手のひら返して陰口言うような人にはなりたくない、もしどこかで挫折しても、自分を見直してもう1回やり直そう! って思える人になりたい、頑張ってって声かけてくれる人が親しくなくてもちゃんとお礼言える人になりたい! って、そう思ったの」

高校3年生の夏のことだった。遠くに蝉の鳴き声が聞こえる廊下で、はそう目標を立てた。

「健司はね、今は大好きな彼氏だけど、最初は私のお手本だったの。それに、あのドン底まで落ち込んでた健司がいきいきとバスケしてると、ホッとするの。そういうところは支えていきたいと思ってるし、この婚姻届もらってからは、これでいつか束縛したいなって、思ってた」

藤真の耳にも遠い夏の日に聞いたであろう蝉の声が蘇っていた。

へえ、って優しい子だな。そんな印象だけを残して高校は卒業してしまった。その後再会した時も、ああ、この子優しい子なんだよなと真っ先に思った。陰口や愚痴はほとんどなく、自分自身に誠実で、いつでもしんどい自分を宥めてくれる存在だった。

それは遠い日に自分が敗北から必死に立ち上がろうとしたこと、腐ってしまいそうなドン底の気分に負けたくないと抗ったことが巡り巡ってという人になり、一生を共にするパートナーになってほしいと願うまでになった。

あの時、お前に何がわかる、と当たり散らしていたら、今のはなかったかもしれない。

ちょっとだけ自分が誇らしいのと同時に、不愉快に思っていた人物の言動を素直に受け取って気持ちを切り替えられるという人を改めてすごいなと思った。自分は失意のドン底でなんとか這い上がろうともがいたに過ぎない。だけど――

はバッグの中からペンを取り出して、婚姻届に自分の名を記入する。

「ねえ、健司。私と結婚して、後悔しない?」

エンゲージメントリングの嵌った左手が微かに震えていた。

……しないよ。死ぬまでに束縛されたい。そう思ってる」

プロ選手でいられなくなっても、どんな挫折が襲ってきても、ずっと。

差し出された婚姻届を受け取った藤真はの手を取り、指を絡めた。怪我をしていた健司の左手と、エンゲージメントリングがきらめくの左手が繋ぎ合わされる。

の瞳が潤んで見えたのは、気のせいだろうか。はにんまりと笑って、言った。

「めいっぱい束縛してあげるね」

END