幼馴染の君が好きでたまらない

朝練が終わって制服に着替えて、自分の教室を通り過ぎて3クラス先の教室に向かう。

!」
「あ、紳ちゃん……
「紳ちゃん、じゃないだろ」
「お、おはよ」
「おはよう」

途端にのクラスのあちこちからクスクスいう笑い声が聞こえてくる。もそれが恥ずかしいようだけど、ほぼ毎朝のことなのでもクラスメイトもさっさと慣れるべきだ。別に恥ずかしがるようなことは何もしてないし、3年生に進級してから既に1ヶ月も繰り返してることなんだから。

「お昼になったら私、届けに行くのに」
「毎回言ってるけど昼は時間がないんだよ」
「じゃあ私が部室に行くよ」
「それはダメ。部室はオレの部屋じゃないんだから」

そんなやり取りをしつつ、から受け取るのは弁当だ。実は今、オレの母親は祖父の具合が悪いので実家に戻っている。それならそれで学食を使えばいいんだけど、昔から家が近所で遠慮がないの母親が弁当を作ってくれると言い出した。慣れた味だし、融通も利かせてもらえるからオレはその方が助かる。

朝練のあるオレの時間に合わせて作ってもらうのはさすがに申し訳ないので、に預けてもらうことに決めたのは新学期が始まる前だ。それからほぼ毎朝こうして弁当を受け取りに来てるんだけど、はそれが恥ずかしいらしい。友達にからかわれるんだと言って、むくれた。

お前ら夫婦かよ、と言われるらしいけど、何の捻りもないじゃないか。というかそれならもう既に小中と言われ続けてるんだし、いい加減慣れろよというところだ。

だいたいは子供の頃から気弱ですぐ泣くし、ちょっと近所の男の子に突付かれただけでオレのところにすっ飛んできてたような子だ。だから自然とオレはを守るようになったし、もオレをずっと頼ってきた。それをすぐ周りは、付き合ってんのか夫婦かよ、と囃し立てた。

そんなこと言わせておけばいいじゃないかとオレは思うけど、はいちいち恥ずかしがる。

ずっとそんな関係だったせいで、オレが海南に進学すると決まった時、の両親は迷わずにも海南に行けと言った。紳ちゃんと同じところに行っていれば安心だから。もちろんオレの親も賛成。ちゃん何か困ったら紳一に言うのよ、てなところだ。

こんなんでも一応付き合ってることにはなってないし、幼馴染にありがちな「大きくなったら結婚しようね」なんていう約束もないけど、まあ、オレはのことは好きなのでそれで問題ない。を守ってやれるのはオレしかいないという自負もあるし、今更以外の女に気持ちが移るとも思えない。

さすがに高校生にもなれば、男の子にいじめられたと泣きついてくることはないけれど、気が弱くて押しが弱くて、あまり自己主張が出来ないのは変わらない。の両親からも娘を頼むと言われているし、海南に入ってからもずっとのことは気にかけてきた。

それが恥ずかしいとは言う。本当に、何を今更。

「祖父さん持ち直したみたいだし、今月中には帰ってくるから」
「私が紳ちゃんの教室に行くのもだめなの?」
「来てもいいけど、今年はうちの顧問が担任だって忘れてるだろ」
「あ……

どうにもこのバスケット部顧問であり今年はオレのクラスの担任というのが曲者で、全国区である海南男子バスケット部を私物のように考えている節がある。監督は別にいるんだし、ただ管理上の顧問というだけなのに、生徒のプライベートにも口を挟みたがるので困っている。

今年主将であるオレの幼馴染で、なおかつオレが何くれとなく面倒を見ているなどかっこうの餌食というわけだ。部内のことであればオレも逆らったりしないけれど、をちくちく突付くのは問題外なので、つい逆らう。そうすると彼女はますますを目の敵にするというわけだ。

管理上の顧問、英語の先生は女性で、れっきとしたご主人もいるというのに、まったくいい加減にして欲しい。

「それより今日は部活あるのか?」
「うん、一応ね」
「じゃあ駅で待っててくれ、一緒に帰ろう」
「え」

またはどぎまぎし始め、きょろきょろと視線を泳がせる。何がそんなに恥ずかしいんだろうか。オレとの関係なんて割と知られたことだし、今更よそよそしく取り繕ったところで何も変わらないのに。

あわあわして何も言い返してこないし、予鈴が鳴ったのでオレはの頭を撫でるとさっさと教室に戻った。きっとまたは頭を撫でられたことであわあわしているだろう。困ったり慌てたりすると、はちょっと挙動がおかしくなる。小さい頃から変わらない。

小学校低学年の頃にふたりでいたずらをしてしまった時もそうだった。黙っていればバレないと思ったオレの真横ではあわあわしだし、あっさりとうちの親にバレた。ただまあ、そこでもオレはは悪くないからと庇い、ひとりで怒られたわけなんだけども。

それもこれも、が好きだからで、オレの精一杯の気持ちなんだけど、最近のを見ているとどうもそれはあんまり伝わってないような気がする。まあ確かに改まって手を取ったりして君が好きだ、なんて言ってはいないけど……それこそ今更じゃないか。

それに、あわあわしていてもはちゃんと待っている。駅前のファストフード店だ。

「あれ、今日は早かったんじゃないの」
「そろそろ中間だしな。だらだら時間だけかければいいってもんでもないから」
「でも今年はまた主将でしょ、疲れてない?」
「大丈夫、ちゃんと休んでるって」

また不思議なことに学校を離れるとこうしては態度がコロリと変わる。本人は常々学校では恥ずかしいからと言うけれど、それがオレにはよくわからない。先生の目さえなければ校内でもカップルは平気でべたべたとイチャつくし、それに比べたら話をするくらいなんだというんだ。

「お前こそ部活疲れなかったか」
「疲れようがないよ……
「でも、けっこう重いものも多いだろ」

は野球部文芸部と並んで海南大附属最古の園芸部所属だ。ただしうちの園芸部の活動は美化委員と大差ない。校内の花壇その他植物の手入れ清掃を週一回行う。自主的に面倒見るのは自由。部活と言うのも憚られるような内容だけど、まあにはそのくらいの方がいいのかもしれない。

「植樹とかするわけじゃないし……心配ないよ」
「本当か? バラの棘とか、虫もいるだろ、平気か?」
「し、紳ちゃん、私、子供じゃないんだから」

は俯き気味になって顔を赤くしている。子供じゃないと言うけど、バラの棘を指に刺したり毛虫に驚いて転んだりしたのは確か去年のことだ。心配するなという方がおかしいと思うんだが……

「子供だなんて思ってない。心配だから言ってるだけだ」
「紳ちゃん、そんな大声で……

はまた唇をあわあわさせ始めた。中学の頃あたりからは見る間に大人っぽくなっていって、本人はそれを嫌がっていたけど、それでもこうして慌てている姿はまったく変わらない。オレだっての親父さんにこれ以上デカくなってくれるなとか言われるけど、本質的には何も変わってないと思う。

それと同じで、なぜかは何でもかんでも恥ずかしいというけど、オレたちの関係だって距離だって、何も変わってないと思う。まあその辺は少しくらい変化があったっていいと思うけど、そんなの男の方の勝手な願望でしかないから、押し付けたくはない。

ファストフード店を出ると、外はもう薄暗くなっていて、オレはいつものようにの手を取った。これも毎回は慌てたり驚いたりするんだけど、そうやっていると躓いたり車道に飛び出そうになったりするから反論できないまま、手を繋いで帰ることになる。

これも地元駅についてバスに乗り、自宅近くを歩き出すとようやく大人しくなる。隙あらば手を引き抜こうとするのをやめて、キュッと握り返しても来る。バス停からの家までの、ほんの数分、その時だけはなんだか恋人同士みたいな、そんな風になれる。

「じゃあまた明日な。小母さんに卵おいしかったって言っておいて」
「うん、わかった。また明日ね」

にこにこしながら手を振るが玄関ドアに消える。いつも少しだけ名残惜しい。ギュッとしたりキスしたり、そういうの、してみたくなる。だけどそんなこと、いまさらどうやって言えばいいのかも正直わからない。

これが高校に入って知り合った子とかなら気にならないと思うけど、何しろ相手は子供の頃から知ってるで、年齢を考えると少々幼いというかお子様というか、きれいな言い方をすればとても無垢だ。それを目の当たりにすると、オレが抱く感情は全て邪に感じてくる。

だからきっと今くらいの距離がちょうどいいんだろうと、ずっと思ってた。それが突然崩壊したのは、県予選決勝リーグを全勝優勝でついでにMVPも取って終わった直後のことだった。

「はあ!? どうして!」

久しぶりにこんな情けない声を出した気がする。テスト期間に入って練習できないので、オレは珍しく早く帰宅していて、ちょうども貰い物のお裾分けだとかで家に来ていた時のことだ。どうせなら一緒に勉強するかとオレの部屋で教科書広げたところで、はとんでもないことを言い出した。

「どうして、って、まあそれは、うん……
「それじゃ説明になってないだろ。なんでまた京都なんだよ」

てっきり内部進学で海南大に進学するものだとばかり思っていたが、京都の大学を受験しようかと考えていると言い出した。なんでそんな遠いところに……というか京都じゃなきゃダメなほど明確な志望があるわけじゃないだろ。だいたい、将来なりたいものは幼稚園の頃から一貫してお嫁さんじゃないかお前。

「い、色々調べてね、ぴったりくるというかね、そういうところがあって……
「小父さんと小母さん何て言ってるんだ」
「うーん、今のところは何も。ダメとも言わないし……

それもなんでだ。こんなぼんやりした子をひとりで京都に進学させるなんて、何かあってからじゃ遅いっていうのに。まさかの進学に合わせて小母さんまで引っ越すとかいうわけでもあるまいに……

「お前そんなこと――
「紳ちゃんだって、家、出るでしょ?」

無理だそんなこと、考え直せと言おうとしたオレをは珍しく強い口調で遮った。

「紳ちゃんだってあっちこっちの大学からスカウトが来てるじゃない。大阪もあったよね」
「それはそうだけど、オレは」
「進学したらそうやって家出るんだし、私がどこに行ったって構わないでしょ」

教科書をめくる手を止めて、は顔を上げた。怒っているようには見えないけれど、気弱で自己主張が出来ないだとは思えないほどに厳しい目をしていた。そんな目で見詰められたオレは、なんと言えばいいかわからなくなって、口を閉じた。

ここにいて欲しい、遠くに行かないで欲しい、気持ちはそれだけしかない。

だけど確かにの言うように、オレはおそらく進学で家を出る。もう長いことスカウトへの返事は保留にしてるけど、その中のどこかへ進むのは確実だ。そして、を引き止めたいと思いながら、自分はどんなところに行っても構わないと思ってる。

は海南大に進むと思い込んでいたから、オレがどこに進学しようとは慣れ親しんだ地元にいつでもいてくれるものと、それ以外の展開などありえないと思っていた。

「海南大に……進むんだと思ってた」
「私もそうしようと思ってたよ」
「じゃあ、だったら――
「紳ちゃんのいないところに行きたいの!」

部屋の中が水を打ったように静まり返った。階下に母親はいるし、うちの近所は人通りも多いというのに、何も聞こえない。自分の息遣いすらどこかに飲み込まれてしまったみたいに、無音の世界だった。

、それ、どういう意味だ。オレのいないところって、それって、なあ、そんなこと、言うなよ。

、オレ――
「紳ちゃんは紳ちゃんのために一番いいところに進学するでしょ。私も、そうするの」
……にとって、一番いいのが、オレのいないところ、なのか」

信じられなくて、信じたくなくて、と離れたくなくて、それしかなくて、つい身を乗り出したオレをまっすぐに見詰め返したは教科書を畳み、バッグにしまう。悲しいのか悔しいのか腹立たしいのか、とにかく頭に血が昇りそうで、自分で自分が気持ち悪い。

「紳ちゃんに、私の気持ちはわからないよ。私も紳ちゃんの気持ち、わからないから」

ちょっと困ったようではあったけれど、優しい笑顔だった。はそんな笑顔を残して部屋を出て行った。

あまりにショックで、オレはその日は何も手につかなくて本当に落ち込んだ。こんな風に気持ちが落ちたのは生まれて初めてのことで、どうやって元の高さにまで戻したらいいのかわからなかった。でもテスト期間には変わりないし、翌朝早くから少し波に乗ったら落ち着いてきた。

試合と同じだと自分によく言い聞かせて、のことは出来るだけ頭から締め出した。考えるべきではない時には考えない、スイッチを切り替えて思考をコントロールしろ。例えば電車に乗っている間ならいくら考えたって構わないから、その他では考えるな。

それでも、最寄り駅に着いて自宅が近くなってくるととの思い出になる場所だらけで、思い出すなと言ってもそれはなかなか難しかった。そのせいで結局期末の順位が5つほど落ちたけれど、最後のインターハイだもんな、5つくらいどうってことないよなどと言われてしまう始末。

インターハイ、その言葉で目が覚めた気がした。期末が終わると、バスケット部はインターハイしか見えなくなる。とはいえそれも3年目だから、スイッチの切り替え自体は難しくない。ただでさえ顔を合わせなくなっていたとも、夏休みに入ると完全に切り離される。

というか、そんなことを意識したのも初めてだった。つまりオレはやっぱりはいつでもの家にいて、そこには必ず気弱ながいるのだと無意識に刷り込まれていたんだ。だから、切り離されるだなんて思ったことはなかった。オレは戦ってくる、お前はここでいい子にしていろ。ずっとそんな感覚だった。

もちろんまだ夏休みなのでは家にいるし、2学期も丸々残ってるから、もう二度と会えないってわけじゃない。だけど、の言葉を毎日毎日思い返しているうちに、とは離れなきゃいけないんだと思い込むようになってきた。自分はの側にいてはいけない人間なのだと。

合宿の間にその思い込みはかなり浸透して、インターハイの間はほとんどを忘れていられた。というかそんなことを考えている精神状態じゃなかった。だから、インターハイが終わって、お盆休みになって練習が休みになって、誰もいない自宅でぼんやりする頃になって、急に虚しさが戻ってきた。

朝イチで海に行って、午前中だというのに既に30度を越えているという天気予報をなんとなく聞きつつ、オレは庭に面した窓を開けて、扇風機を回しただけのリビングでソファにひっくり返っていた。珍しく体も心もだるくて、起き上がりたくない。

インターハイは決勝で負けたし、は遠くへ行ってしまうし、もういい加減進学先を決めないといけないし、だけどまだ海南には国体と冬の選抜も残っているし。ああクソ、インターハイは優勝してはずっとここにいて最良の進学先が決まって国体も冬の選抜も優勝なんていう甘い妄想が襲い掛かってくる。

自分に都合のいい想像は嫌いだった。

全ての成功にはそれを勝ち取るだけの過程があって、理由もなく得られる結末なんか敗北より屈辱だ。

だから、が遠くへ行ってしまうのも、きっとどこかにそうなるだけの理由が潜んでいたに違いない。オレに見えなかっただけで、は少しずつオレから離れる準備をしていたのかもしれない。オレだけがと離れることなんかこれっぽっちも考えていなかっただけで。

「こんにちはー」

だからそんなの声が聞こえてきても、オレはたっぷり5秒は反応できず、ただぼんやりと天井を見上げたままだった。それでもの声が聞こえた方に首を捻ると、が庭からリビングを覗き込んでいた。手には何やら紙袋をたくさんぶら下げている。そういえば今年は法事があるとか言っていたから、土産か。

「あれっ、紳ちゃん? あ、お盆で学校休みか。小母さんいる?」

白っぽい色のワンピースに麦藁帽子のが夏の太陽に照らされて、まぶしい。眩む目を少し細めたオレは、ゆるゆると首を振った。母さんは父さんをサマーバーゲンに強制連行している。オレの様子がおかしいことはもわかってるはずだ。だけどは顔色一つ変えない。

「これ田舎のお土産。冷たいのがあるから、冷蔵庫入れるね」

は網戸をするすると開けて庭から入ってきた。勝手知ったる牧家のリビングを横切り、キッチンに入ると土産を冷蔵庫の中にしまう。ついでに麦茶も飲む。もうこんな風にが何の遠慮もなく家に入ってきて、ねえねえ紳ちゃん、なんて呼びかけられることもないのだと思うと、ますますだるくなってきた。

「インターハイ、惜しかったね」
……しょうがないよ」
「落ち込んでる?」
「たぶん」

グラスを洗って片付けたは、音もなくやってきてソファの傍らにしゃがみ込み、オレの顔を覗き込んだ。

「大丈夫だよ、試合には負けても、紳ちゃんに勝てる人なんていないんだから」

または優しい笑顔で微笑んだ。これももう見られなくなるのだと思うと、一気に色々なことがどうでもいいような気になってきた。インターハイの勝敗は覆らないし、も遠くへ行ってしまったら戻ってこない気がする。過去は変えられない。だから、遠慮とか気遣いとか、そういうのがばからしくなった。

体も捻り、手を伸ばしての手のひらを掴んだ。

、来週の月曜まで練習休みなんだ」
「え、あ、そうなの」
「月曜からはまたいつもと同じに戻る」

それまでなんでもない風を装っていたらしいは、途端にあわあわしそうになって、それを堪えている。少し逃げ腰になっていて、視線が泳ぐ。扇風機の風に吹かれた白っぽいワンピースが衣擦れの音を立てて、の髪をそよそよと煽っている。

「その間、いつでもいいんだけど、少し、時間くれないか」
「じ、時間? 何かあったっけ?」

ぴーぴー泣きながら、しんちゃんたすけてと駆け寄ってきたも、今目の前であわあわしかけているも、どっちも好きだ。ずっとずっとを守っていたかった。に何かあれば、助けてやるのは自分でいたかった。だけど、それはもう覆らない過去になってしまうらしいから。

「何もないけど、少しでいいんだ、少し、一緒にいて欲しい、ふたりだけで、京都、行く前に」

1時間だってよかった。ただどこでもいいからふたりだけで過ごせれば、それでスイッチを切ろうと思った。というスイッチをオフにして、もう二度とオンにしないようにするために。

ところが、オレがそう言うなり、は手を跳ね除けると顔を真っ赤にして唇をわななかせた。

……それも、ダメか」
「ほ、本当に、紳ちゃんの考えてることわかんないよ……!」
「考えてることって、――
「紳ちゃんがどうしたいのか、どう思ってるのか、全然わかんないよ、私は、紳ちゃんのなんなの!?」

いやそれはオレもよくわからないんだけど。ていうかオレだってが何考えてるのかなんてわかんねえって。なんで恥ずかしいんだよ、なんで京都なんかに行くんだよ、なんでオレのいないところに行きたいなんて言うんだよ――

「私を置いていくのは紳ちゃんでしょ、子供の時のまま、はダメな子だって、オレがいなきゃダメなんだからとか言うくせに、置いていくんでしょ、ひとりでどんどん先に行って、なのに私が紳ちゃんを置き去りにしていくみたいな、そんな言い方――

ぺたりと床に座り込んだは、乱暴に麦藁帽子を脱いでくしゃくしゃにしている。

「少しでいいから一緒にいたいなんて、いつも忙しくて時間なかったのは紳ちゃんじゃない」
、ちょっと待っ――
「付き合ってるわけでもないのにべたべた触ってきて、彼女にすらなれないのに、夫婦とか、言われて」

原形を留めないほどに潰されてしまった麦藁帽子を胸に抱いたまま、は体を折り曲げた。

「そうやっていつか彼女とか紹介されるくらいなら、紳ちゃんのいないところに行こうって、なのに、なのに――

それまで重くだるかった体が一気に目覚めた感じだった。とにかくオレはがばりと跳ね起きてソファから滑り降りると、体をふたつに折り曲げているの肩を掴んで引き起こし、力任せに抱き寄せてぎゅうっと締め上げた。扇風機の風にさらされていた肌が冷たい。

こんな風にくっついたのは、いつ以来だっただろうか。の肌は、こんなになめらかだっただろうか。こんなに甘い香りがするものだっただろうか。の体は、こんな風にしなやかで柔らかいものだっただろうか。

オレは一度たりともに好きだなんて、言わなかった。わかってくれてると、勝手に思っていたから。

今度こそあわあわしているは、だけどぎゅうっと抱き締め返してきて、くすんと鼻を鳴らした。そのの耳元に囁きかける。言いたいことなんかてんで纏まらないけど、思うことを全部ぶちまけた。

、少しじゃなくて、ずっと一緒にいたい、京都なんか行かないでくれ、今更と思ってたけど付き合いたいし彼女になって欲しいし、好きだから、ずっと好きだったから、一度も言ってやれなくて、ごめん――

オレがお前を置いていくことになるんだったら、ここに残されることになるんだったら、だったら一緒に行けばいいじゃないか。どうして離れなきゃいけないんだよ、近くにいられる方法がないって、誰が言ったんだよ。それを、一緒に考えればいいじゃないか。

、だから遠くになんて、行かないでくれ。

の唇に伝ったのが、涙だったのか汗だったのか、わからない。だけどそれはしょっぱくて甘くて、苦いような気もして、息が詰まる。の柔らかな唇にキスして、そしてそのまま床に倒れこんだ。冷たかったの肌が熱くなってくる。

「私は、紳ちゃんの、なに――?」
「一番、大事な、好きな、女」

もう、幼馴染ですらない気がした。ここにいるのは、ただ愛しいだけの、という女だった。

END