「あ、先輩おはようごじゅいま、ごじゃ、ございます!」
「お、はよー」
「……笑いたかったら笑ってくださいよ」
朝から盛大に噛んだはそう言って睨みつけてきた。笑っちゃいけないと思うより、笑うことでを小バカにしていると思われたくないから我慢している。でも、自分でも口元が我慢しきれていないのはわかってる。
だってしょうがない。朝から部室にふたりきりで、顔を合わせるなりもにゃもにゃと噛み、それでもめげずに言い切ったのその姿があんまり可愛いから。我慢してるのは笑ってしまいそうなことだけじゃない。許されるんならぎゅうぎゅう抱き締めて撫で繰り回したい。
ペットじゃあるまいし、だって? ごもっとも。だけどはくるくると回る瞳が子犬や子猫のように可愛いので、それに近い表現になってしまうのもしょうがないと思う。
「わかってますよ、私はトロいし噛むし、なんか色々足りてなさそうなことくらい」
「そんなこと言ってないだろ」
「木暮先輩が気遣いの人だから言わないだけで、他の人は普通に言います」
はぷいとそっぽを向いて、つんと顎を上げる。そんな仕草も可愛くて、いてもたってもいられないような気持ちになる。が可愛くてつい気が緩みそうになるのに、今が朝の6時半だということはあんまり関係なさそうだ。
確かにはあまり要領が良くない。要領が良くないというか、一度にたくさんのことを同時進行できない体質らしく、バスケ部のマネージャーを頑張ってはいるけれど、もはや腕利きの風格の彩子と違ってマスコットというか、ぶっちゃけ隙だらけのゆるキャラのような感じだ。
その辺を赤木や三井はもちろん、同学年の部員たちはよくからかう。は一応2年生だけど、最近は1年生ですらあれこれをからかってはじゃれついている。まあ当然その中に流川は含まれていない。
とはいえそれはがそういう可愛らしいキャラクターだという以外に他意はなく、本人もあまり気にしている様子ではないから誰も止めない。じゃあの言うようにオレは「気遣いの人」だからを笑ったりからかったりしないのか、と言えばそれはもちろん違う。
これだけ可愛い可愛いと言うからには、オレはのことが好きなんだけど、なんというか丸1年以上も同じ部活をやっていながら特に進展はない。部活の中での関係を壊したくないので告白もしようと思わなかった。それでもオレはのことをからかったりしない人間なのだと思っていて欲しい、ただそれだけ。
ただし、このようにはふいうちで可愛い天然ぶりを披露してくるので、そりゃ口元くらい緩むよ。
「みんなのこと可愛いと思ってるんだよ」
「そうかなあ。あんまりそういう優しさを感じませんけど。特に三井さんとか」
「あれはあんまり真剣に相手してると疲れちゃうぞ」
三井の場合は完全に面白がっているので、可愛い後輩をちょっといじるとかいう域を超えてしまっているのは否めない。ただし、何も謂れのないことで貶したりはしないので、が今三井の名を挙げたのも、ある意味では仕返し的なことなんだろうと思う。
「インターハイ終わったら新体制なんだし、もっとドーンと構えて――」
「ああっ、そうだ!」
「え!?」
もっと気楽に余裕を持って、と言おうとしたオレに被せては裏返った声を上げた。
「先輩、引退しちゃうんだ」
「インターハイ終われば、そりゃするよ」
「どうしよう」
「何が」
のサッと顔色が変わる。というか3年生がインターハイ終わって引退は普通のことだと思うんだけど。インターハイ行かれなかったらもう引退していたかもしれないんだし。はすっかり困った顔をしてオレを見上げている。あんまりじっと見詰めないで欲しいんだけどな、我慢、できなくなるから。
「先輩が引退しちゃったら、私困ります」
「……え?」
それはどういう意味かな。こっちもあんまり悶々としている暇はないので出来ればはっきりと……
「赤木先輩のお説教はなくなりますけど、それ以外は残るじゃないですか」
「まあ、そうだね」
「なのに木暮先輩までいなくなったら私精神的にもちませんよ。やだなあ……」
困った。とりあえずどっちを先に反応してやったらいいんだろう。
ひとつは、気にしていない様子だと思っていたのに、部員たちからあれこれからかわれていたことにダメージを受けていたらしいこと。ひとつは、オレがいなくなったらそれに耐えられない、ということ。つまり今は「オレがいるから」耐えられているってことだよな?
いやまて、後者に関しては、オレはのことをいじったりしないし、からかったりもしないし、ちょっと言われ過ぎてるなと思えば助けたりフォローしたりしてるから、ただそれだけってこともあるよな。というかそう考えるのが無難だ。
「……引退する前に、宮城にちゃんと言っておくから」
「私がトロいのが悪いんですよ。今までは先輩に甘えられたから、気にならなかったけど」
甘えてたの? そういうのはもう少しわかりやすくやってもらえると……ってそうじゃなくて。
「傷付かないわけ、ないよな。ごめん、気付かないで」
「いやいや、先輩が謝ることはなにも! 私がお荷物だからいけないんであって」
「そんなことないって!」
いやその、これは勢いというやつで、は確かに彩子と比べてしまうと劣る気がしてしまうのは事実だ。だけど仕事じゃないんだし、部活ってそういうものじゃないか。それをからかったりする方がおかしいだろ。みんなそんなつもりないだろうけど、一歩間違えたらいじめになっちゃうようなギリギリのところなんだし。
さて勢いでの肩を掴んでしまったんだけど、どうしよう。
「そんなことありますよ〜。私も先輩と一緒に引退しようかな……」
「バカ、それじゃ引退じゃなくて退部だろ」
「あっ、そうか」
これだから赤木にはため息をつかれて、三井には過去のネタまで蒸し返される。同じクラスの安田の話では、成績は悪くないらしいんだけど、どうにもボンヤリしているというか天然というか。いやもちろんそれが可愛いんだけど、それとこれとは話が別で。
しかし困ったな。こんな状態ではを置いて引退するのが不安になってきた。
かといって三井みたいに冬まで残るとかオレは無理だし、今更をすっぱり忘れるなんて出来ないし、どうしたらを守ってやれるだろう。部活という意味ではあとほんの少ししか一緒にいられない。引退した後もを守ってやるにはどうしたらいいんだろう。
「ううう、先輩、留年してください」
「いや、ちょ、それはさすがに」
オレがいれば、オレがフォローし続けてやれれば、オレがいつでも目を光らせていてやれるんなら……
「あ」
そう、つまりに番人がつけばいいということだよな? 番人がいると思えば遠慮が出るよな?
「先輩?」
「、嘘、つけるか?」
「嘘、ですか」
嘘でもいい、君を守れるんなら。
「オレたち付き合ってることにしよう」
「え!?」
「人の彼女だと思えばあんまり言わなくなるんじゃないかな」
オレの願望が多分に混ざってることは否定しない。だけど、いいアイディアだと思うんだ。嘘でもいいからオレが彼氏ってことにでもしておけば、とりあえず2年生以下は遠慮してくれるに違いない。少々信用できそうにないのが若干名いるけど信じる。三井だってそうとなれば少しは気を遣ってくれると思いたい。
それに、はそんな嘘を笠に着て急に偉ぶったりしない、というか出来ない。そういう子だから。
そりゃあ、が来年無事に引退するまで嘘をつき続けるという、無理のある策には違いないけど、もうこれくらいしかできることはないような気がする。そうでなければ、は部活動をトロいという理由で半ば追い出されるようにして退部するしかないじゃないか。
「もちろん部活の中だけでの嘘だよ。ちゃんと彼氏できたらそう言えばいいんだし」
それではを守れなくなるけれど、オレにできることはもうこのくらいしかない。
本人が言うようにはトロいけれど、裏表がなくて優しくて、いつもにこにこしてて、そんなところがたまらなく可愛い。かなり天然だけど、それも可愛く見えるのは、オレが好きだと思っているからなんだろうか。
付き合ってる振りすらしない、ただの嘘。そんな嘘をついていたって、引退したオレと実際に並んで歩いたりする必要はない。ただ君の番人になれるかもしれないから、そんな嘘でも構わない。
だめかな――
「先輩」
「ん?」
「嘘は、いやです」
ま、そうか。さっきも言ったけどは裏表がなくて、誰に対しても態度を変えたりしない正直な子だからなあ。そんなところが好きなんだけど、そうだね、それに嘘をつき続けろというのは酷だよな。を好きだと言いながら、そんなことにも気付いてやれなくて、ごめん。
「私トロいから絶対ボロが出ます。……それに、振りなんて、惨めすぎます」
「……そうだよな、ごめん」
「先輩が優しいからつい甘えちゃいましたけど、先輩もそういうの、やめた方がいいですよ」
肩に置いたままのオレの手の下から、は身を引いて逃げ出した。ああ、なんか失敗したっぽいな。ごめん、いい思い付きだと思ったんだけど、にだってプライドってものがあるよな。そういう所にまで考えがいかないんだから、オレもほんとに詰めが甘いよな。
「好きでもないのに付き合ってることにしようとか、そんなの、残酷です、よ」
「……え?」
「そりゃ私みたいなのと付き合いたいとか思う人なんていないですけど、だからって――」
「ちょちょちょ、、ちょっと待った」
オレもなんだかよくわからなくなってきちゃったけど、、それ何の話だ?
「プライドに障るようなことを言ったのは悪かった。でもそれはほら、そうすればみんなにあれこれ言われなくなるかもって思ったんだよ。ただそれだけだし、は誰とも付き合わないからいいだろうだなんて、思ってないって。……思ってないよ、そんなこと」
ああもうほんとわけわからん。ぽかんとしてる可愛いけど、なにこの状況。
「それに、と付き合いたいと思ってる人ならここにいるけど!」
あーあ。さっきまで言うつもり、なかったのに。
「嘘がいやなのは同じだよ!」
逆ギレかよ……。でもまあいいや。もう少ししたらテスト期間に入るしテスト終わったらすぐ合宿だしインターハイだし引退だし、こんなオレでも部活以外にも悔いは残したくないもので、つい口を滑らせたけど、これではっきりと拒絶されれば諦めもつくかもしれない。
「じゃあそう言えばいいじゃないですかあ!」
「だっていやだろそんなの!」
「そんなこといつ言いましたか!」
「言っ……てないか。あれ?」
またわけがわからなくなったオレを残して、はマネージャー用のロッカーにバッグを力任せに放り込み、ドアをバタンと勢いよく閉めた。朝練に付き合うくらいだと、は着替えない。制服姿のままつかつかと戻ってきたは、あまり迫力のない顔でオレを見上げて睨んでいる。
そんな顔をされてもちっとも怖くなんかない。むしろ、可愛さが増す。……じゃなくて何これどうなるんだ。
「なんかよくわかんないんですけど、結局どういうことなんですか、これ」
いやそれはオレの台詞なんだけど。ええと、確か話の発端はが部員にあれこれ言われるってことで、それをどうにかしたくて、それでついあんなことを。だから、そう、それは――
「が好きってことだよ」
「……先輩が?」
「そう。気付かなかっただろ」
「……トロいので」
「あのな、こんなことに先輩も後輩もないんだから、遠慮しないで、いやならそうとちゃんと――」
「いやなんて言ってないって言ってるじゃないですか!」
よく見ると、の耳は真っ赤に染まっていて、それがまた可愛くて、違う意味でどうしたらいいかわからなくなってきた。だけど、これはもう、自惚れてもいいんだよな? いやじゃないんなら、いいってことだよな? オレがを好きでも付き合いたいと思ってても、構わないってこと、そうだよな?
「じゃあ、みんなにオレの彼女だからいじるなって、言っていい?」
こくりと頷く君がまた可愛い。このことではまたみんなにあれやこれや言われてしまうだろうけど、もうそれ以外では何も言わせないからな。嘘じゃなくて本当にオレは番人になろう。そして堂々とこの可愛いを撫で繰り回せるようになろう。
あまりの急展開に頬を染めているをオレは黙って抱き寄せた。緊張なのか、カチコチになっているの背中が愛しい。もうほんと、誰にもトロいだの何だの、言わせないからな。さて、それをどうみんなに伝えたらいいだろう。今日の放課後までに、考えておかないとな。
「先輩やっぱり留年してください〜もっと一緒にいたい〜」
……まあ、こんなんでも可愛く思ってるんだから、わかってくれるだろ、みんな。
END