コドモの時間

牧編 1

4月、始業式の翌日のことだった。すぐに週末になるため、在校生からは「春休みを少し延ばせばいいじゃないか」と非難轟々であったが、とにかく始業式の後に新学年の教科書やら資料やらを受け取ると、またすぐに休みである。

しかし、部活動が盛んなはずの海南大附属は部活解禁日を週明けに設定。始業式前日までは活動していた全クラブ活動が始業式を含め3日間休みになる。春休み延長しろ勢とはまた別の意味で部活に熱心な生徒からもブーイングが出ていた。

そんな中、新3年生であるはそのどちらでもなく、自身が所属していたローラースケート部は気軽な活動だった上に、部員数がとうとう5人を切ってしまったため、前期で廃部になったばかりである。最後まで残っていたを含む4人も、特に未練はなかった。お遊び部のつもりだったし。

なので特に忙しくもなく、学校に行くのがめんどくさくもなく、さて今年はどうしようか、海南大への内部進学のつもりだったけれど、一念発起して外部を目指してみるのもいいかもしれない。は始業式の帰り道をそんなことを考えながら歩いていた。

……いや、勉強頑張るのもいいけれど、アルバイトもいいかもしれない。大学附属の高校に入って2年、内部進学に必要な成績をキープしていれば安全という前提があるせいか、どうにもぼんやりと過ごしてしまった。幸い親しい友人も出来たし、お遊び部も楽しかった。

そうだ、バイトだ! 今から少しずつ学校とバイトの両立を覚え、来る夏休み頃にはたくさん働けるようにしてお金を稼ごう! 高校生や大学生が多い所がいい。年齢も学校も違う友達ができるかもしれない、彼氏もできちゃうかもしれない!

2年間ぼんやり過ごしてしまったせいで、は未だ彼氏ナシ、中3の時に受験の真っ最中だと言うのに同じ小学校出身の幼馴染と付き合ってしまい、しかし慣れた間柄と受験のせいで特に進展することもなく、卒業を迎える頃にはすっかり気持ちが冷めて自然消滅だった。

てか、それ付き合ったことにならないよね? 一応ひとりカウントしておくけど!

向上心はあるが闘争心はほぼないは、前向きだが積極性に欠けるというような状態で、しかしどうせ週末も予定がないのだし善は急げ、と地元駅の改札を出たところでタウン誌やバイト情報誌を引き抜くと、自宅とは反対方向の口に出た。

自宅へは反対口からバスで少し、というところだが、駅から少し歩くとお気に入りの公園がある。天気はいいし花粉症もないし、公園のベンチでのんびりバイト情報を見ようと思った。そんなもの移動中に情報誌のウェブサイトでサクッと確認すりゃいいだろう、みたいなのは無粋な気がしたのだ。

途中コンビニに立ち寄り、カフェラテとクッキーを買う。よく晴れた春の空の下、公園のベンチでティータイムなんて、ちょっとおしゃれさんみたいじゃないか。お気に入りの公園は手入れと警備が行き届いているので、ひとりで長時間過ごしていても不安がないし、利用層も穏やかこの上ない。

それほど巨大な公園ではないが、清潔な人工池と遊具がいっぱいの児童公園、ランニングコースにアスレチック器具、シルバー世代向けの運動器具もあるし、ドッグランも整えられた芝生の広場もある。ベンチは隣に話し声が聞こえない程度の間隔でいくつも置いてあるし、とにかく過ごしやすいのだ。

さわやかな春の風に髪を踊らせながらは軽い足取りで広場に向かう。そこで情報誌を読んで、もし良さそうな求人があったらその場で面接を取り付けてもいい。週末は予定がないし、先方がいいならすぐに面接に行ったって構わない。

何がいいんだろう、フード系? 販売? アミューズメント系? 仲のいい友人は高校に入ってすぐ居酒屋でバイトを始めて2年、入れ替わりが激しいせいで既に古株、去年入ってきた新入社員より仕事ができると鼻息が荒い。さて、どんな求人があるかな〜。

世の中にはブラックバイトなる言葉もあるわけだが、基本前向きなはそんなことは考えていない。きっと気のいい仲間がたくさんいて働きがいのある職場があるに違いない、彼氏はハードル高いかもしれないけど、きっと友達なら! は今にもスキップしそうな勢いで広場に向かっていた。

だがそこで彼女は衝撃的なものを目にして足を止め、あまりに驚いたので声が出た。

「牧!?」
「えっ? おお、じゃないか」

広場の片隅にいたのは、おそらく海南大附属でもっとも有名な生徒である牧紳一であった。なぜ有名かといえば、彼の所属しているバスケット部が県下最強を謳われるチームだからであり、バスケット部事情に詳しい生徒に言わせれば、牧自身、きっと神奈川で一番上手いプレイヤーだという話だからだ。

だが、それが事もあろうに、小さな子供を抱っこしている。

「牧……子供いたの……
「なんでそうなる」
「だって……牧お父さんぽいし……
「お父さん言うな」

一応と牧は1年の時に同じクラスで、しかもまだ1年生で余裕のあった彼と一緒に課外授業委員をやっていた。何の事はない、課外授業の際に先生の補佐をするだけの簡単なお仕事。だが、部活で実績のある牧だと誰でも言うことを聞くのでやりやすかった。そういう縁があるので気楽な相手ではある。

というか彼は大変大人っぽい風貌をしており、しかも現在その県下最強のチームのキャプテンでもあるので、高校3年生になったばかりの17歳にしては包容力がダダ漏れの「お父さん感」も海南随一なのである。本人は嫌がるが、は間違ってない。

「かわいい子だね〜! 女の子だよね?」
「そう。サナ、もうすぐ3歳です」
「サナちゃん! かわいいねー。姪っ子?」
「いや、知り合いの子。この子のおじいちゃんが事故にあったらしくて」
「え、そ、そんな」
「いや、おじいちゃんは命に別状ないよ、ただ慌てたおばあちゃんが転んじゃって」

それが今朝の話だったという。出勤途中に自転車同士の衝突事故を起こしたおじいちゃんは転倒した時に頭を打ってしまったらしく、そのまま病院に搬送、現在検査中。それを聞いたおばあちゃんが慌てて病院に向かおうとしてマンションのエントランスで転倒、こっちは骨折。しかも両足。

しかも間の悪いことに本日急行できる距離にいる家族はサナちゃんの両親だけ。トラブルに見舞われたのはサナちゃんの父方のジジババだったのだが、お父さんは午前中どうしても仕事で抜けられず、しかしサナちゃんを今すぐ預かってくれるところもなく、サナちゃんのママは途方に暮れていた。

だが、本日牧が始業式と知っているサナちゃんのパパが藁にもすがる思いで連絡を寄越してきた。

「サナは生まれる前から知ってるし、パパが仕事抜け出してくるまでの間だけだから」
「そりゃそうだよね。どれだけ子供に慣れててもサナちゃんが怖い人じゃ可哀想」
「うちで預かってたんだけど遊ぶものもなくてな。公園ならいいかと思って」

そう言いながら牧はサナを抱き直す。彼女は見知らぬお姉ちゃんが現れたので少々警戒気味。眉間にしわが寄っていて、牧のネクタイをガッチリ掴んでいる。

「てか部活がないときでよかったね。普段なら牧も絶対動けないもんね」
「土日練習出来ないの困ってたけど、逆に助かったよ。てかはどうした」
「えっ、私? いやその、暇なもんだから」
「あ、すまん、そうだよな、廃部になったんだよな」

公園でティーブレイクなんておしゃれさんみたいじゃん、などと浮かれていたとは言えないのでつい濁してしまっただったが、牧は海南クラブ活動ヒエラルキーの頂点にいると言うのに、人数不足で廃部になったお遊び部のことをちゃんと把握していたらしい。余計に気まずい。

そういえば……は思い出す。一緒に課外授業委員をやっていた頃、お恥ずかしながら遊んでるだけのローラースケート部です、と言ったを笑いもせず、牧は「すごいな、滑れるのか」と真面目くさった顔で言ってきたものだった。

運動神経は悪いはずないのに何言ってるんだとツッコミを入れたに、牧は転んで怪我したら部活に響くから、とまた真面目くさった顔で返してきた。県内最強のチームの特待生で既に上級生より上手いとか言われてる人なのに、なんかしっかりした人だなと思ったことを思い出す。

ローラースケート部が廃部になった件が気になったのか、牧の眉が少しだけ下がる。

「暇なら一緒に遊ぶか?」
「え」
「というか実はトイレに行きたくなったらどうすればいいかわからなくなってて」

気遣い半分、切実な理由半分というところのようだ。というかまだ3歳、一緒に入っちゃえばいいじゃないかとは思ったが、3歳でもレディであるサナを男子トイレに連れ込んではならぬと思っているであろう牧が少し可笑しくて、はつい笑った。

「それは大変だわ。てかサナちゃんは平気なの」
「サナはまだおむつ」

牧が肩に引っ掛けているビニールバッグをバフッと叩くので、はまた笑った。お父さんじゃん。はサナの正面に回り、ちょっとだけ顔を近付けてみる。

「ねえねえ、サナちゃん、お姉ちゃんも仲間に入れてくれる?」
……いいよ」

いいよと言いつつ、サナはしかめっ面のままだ。はまた笑い、牧は正直にホッとして安堵のため息を付いた。自宅ではサナが退屈するだろうからと連れ出したはいいが、もし自分がトイレに行きたくなったらどうすりゃいいんだ……とずっと考えていたようだ。

「何して遊ぶの?」
「さっき到着したばっかりだからな〜。サナ、何しようか」
「ひこうき」

しかめっ面のサナ姫はそう言って牧のネクタイをぶんぶん振り回した。

「確かあっちに飛行機の遊具あったよな」
「それかなあ。サナちゃんここ来たことあるの?」
「あると思うんだけど……

サナは何度聞いても「ひこうき」しか言わない。すると牧がひらめく。

「もしかして……パパとやってるやつか?」
「うん、パパひこうきやるよ」
「どういうこと?」
「たぶんこれだ」

そう言うと牧はサナの腹をしっかりと支えて高く持ち上げ、勢いよく振り回した。

「きゃー!」
「当たったー! 牧すごい!」
「意外と重い!」
「女の子に重いとか言うなー!」

サナは大はしゃぎ、牧がぐるんぐるん振り回すので歓声を上げている。も一緒になって飛び上がり、「サナちゃーん!」と声をかけるとまた歓声。平日の昼時、広場は人が少なく、牧はしばしサナを振り回し続けた。

――が、3歳児、意外と重い。しばらくすると突然サナを下ろしてしゃがみこんだ。

「ひこうきひこうきー!」
「ちょっと待った腕が死ぬ」
「じゃあサナちゃん、今度はお姉ちゃんがやってあげる」
「え、無理するなよ」
「そりゃ牧みたいなのは出来ないけど、よっ、と」

高く持ち上げて振り回すのは無理でも、後ろからしっかり抱きかかえて一緒に回ることなら出来る。また飛行機をやってもらえるものだと思ったサナもケタケタ笑いながらに抱っこされた――のだが、実際は飛行機ではなく足が宙に浮くだけのぐるぐるである。目線も低い。

「これやだー」
「えー!?」
「ひこうきがいいー」
「お姉ちゃんあんな高く上がらないよ」

サナはの手をぐいぐいと押し返して着地すると、腕をブラブラさせている牧の背中に体当たりをし、ベチベチと叩いている。「しーち、しーち」と言っているが、おそらく牧の名である「紳一」と言いたいのだろう。

「サナちゃん、お兄ちゃん腕が使えなくなったら大変だよ」
「しーち、ひこうきやってー」
「サナ、飛行機もいいけど……ワンワン見に行かないか?」
「ワンワン!?」

サナの興味は一瞬でワンワンに移った。が、は牧の口から「ワンワン」などという言葉が出てきたので両手で口元を覆って笑うのを我慢している。お父さん、お父さんすぎる。

「苦しそうだな」
「ご、ごめ……普段すっごい厳しい人が急にワンワン言うから」
「安心しろ、自分でも可笑しいから」

サナちゃんが抱っこをご所望なのでひょいと抱き上げた牧は、ちょっとばかり頬が赤かった。

「でも牧子供の扱いうまいね」
「どうせお父さんだからな」
「褒めてるのに〜!」

は笑いつつも、少し先を行く牧の手を思わず掴みそうになって慌てて戻した。背は高いし、日々鍛えている体は大きいしで、自分も「お父さん!」と言って手を繋ぎたくなってしまったのだ。いいなあ、サナちゃん、私も手を繋ぎたいなあ――

そんな思いはそっとしまい込み、は小走りで牧を追いかけていった。

公園の端っこに位置するドッグランには広場から3分ほどで行かれる。やっぱり平日の昼時なので利用者は少ない。小型専用に数匹、フリースペースは猛ダッシュしている柴犬が1匹しかいなかった。

「あっれー、ワンワンあんまりいないね……
「まあそうだよな、土日なら溢れかえってるのに」
「ここ、よく来るの?」
「部活がない時とか、たまに走りに来るよ」
「えっ、そうなの。私もたまに来るけど会わないね」
「ああ、オレは夜が多いから。金曜とか土曜の夜なんか犬多いんだよな」

猛ダッシュの柴犬が面白いらしく、サナは牧に肩車で喜んでいる。その下では頷いた。が公園を利用するのはもちろん明るい時間帯に限られる。明るくても利用者が極端に少なければやっぱり引き返すこともある。ちょっと怖いから。

「いいなあ男の子は。夜ひとりで走ってても平気だもんね」
「走りたいなら付き合うけど」
「牧の速度では走れないよ」

無理無理〜! と笑って返しつつ、は嬉しくなって頬を押さえる。押さえておかないとニヤついてしまいそうだ。ああ牧ってば本当にお父さんぽい……サナちゃん羨ましい私も肩車してほしい……

「確かに今から何か部活入り直すってのもな」
「えっ? ああ、うん、そうなんだよね。どうせすぐ引退なんだし」
「あ、そっか、普通はそうだよな……
「牧っていつまでいるの」
「12月まで」
「なっが」

牧によると、12月の大会を最後にやっと引退になるという。本人は言わないけれど、きっと進学先も決まってるんだろうな――そう思うとちょっと寂しくなる。やっぱり外部目指してみようかなあ。だが、そういうの様子は全て「廃部」の件にあると牧は思っているらしい。

「確かに校則だと部員が5人いて初めて認可されることになってるけど、別にいいのにな」
「大会とか目指して真面目にやってたわけじゃないんだけど、だからこそダメだったのかも」
「自主的に望んで活動してたのに、それを人数が少ないから廃部ってのは疑問だよな」
……えーと、私そんなに気にしてないよ?」

はしゃぐサナを肩に乗せたまま、牧はきょとんとしている。

「自分たちでも『こんな遊んでるだけじゃね〜』って思ってたし」
「そ、そうか」
「ありがとね。私が単に暇になっちゃってるってだけの話」

その暇をアルバイトにでも使うか! と公園にやってきたら思わぬ出会いがあった。楽しい。は牧に並んでドッグランの柵に腕を置いて緩んでしまう頬を好きにさせておいた。牧がこんな風に暇になることもほとんどあるまい。貴重な体験をしているとも言える。

がそんな風ににんまりしていると、猛ダッシュしまくって満足したらしい柴犬が出ていった。途端にサナは牧の髪を掴んでぶうたれはじめた。

「サナ、痛いよ」
「しーち、ワンワンいなくなっちゃった」
「そうだなー。サナ、次は何して遊ぶ」
「うーんとねー、どうしようかなー」

サナが考えている間に、牧はを促してドッグランを離れた。制服姿の男女がふたり、小さな子を連れて歩いているので、途中すれ違う人には怪訝そうな顔をされたりもしたけれど、牧はまったく気にしていない様子だ。はそれもちょっと嬉しくなる。

部活では厳しいキャプテンなんだって、と風のうわさで聞いていたけれど、今はそんなことない。

「サナ、ブランコとか滑り台好き?」
「好きー!」
「よーし、じゃあ次はブランコ行こう!」
「いこー!」
、走れるか?」
「平気! 頑張る!」
「サナ、しっかりつかまってろよ!」

実はもうずっと足元がそわそわしていた。楽しくて、じっとしていられないような疼きが足元につきまとっていた。は牧の問いかけにしっかり頷くと、軽くジャンプしてから走り出した。もちろん牧は速度を加減してくれている。春の涼やかで温かい風の中をは笑いながら駆けていった。