冷たくしてよ

「なんでオレが」
「あんたテスト前でしょうが。部活ないんでしょ。どうせ勉強しないんだから、いいじゃない」
「昨日勉強しろってギャーギャー言ってたくせに……
「とにかく、必要な物はメールしておくから頼んだわよ」

無事にインターハイ出場を決めた湘北だが、期末テストはやって来る。正直、バスケット部は勉強なんかより練習がしたいけれど、実績もない県立高校のチームには特例などという措置はなく、期末テストが終わるまで部活動は一切禁止である。ご丁寧に体育館は先生の見張りがついていた。

仕方ないので一度帰ってから公園かどこかで練習するかと考えていた三井寿は、帰宅途中に仕事中の母親の電話に捕まった。近所に住む親戚の女の子が風邪で寝込んでしまい、ひとりだから差し入れを買って届けてくれという。電話に出なければよかったと思ったが、後悔先に立たず。

風邪でダウンしているらしいのは、、湘北とは別の県立高校に通う同い年だ。

ちなみに親戚とは言うが、血は繋がっていない。母親同士が仲がよく、数年前からの家が母子家庭になっていて、以来三井母は家を陰ながら支援しているというわけだ。

そんな家だが、三井家長男がへそを曲げてグレていた頃はもちろん顔を出したことなんかなかった。というか三井母はグレた息子より母子の方を心配していたようであったし、構われたくなかったから、三井もそれでよかった。しかし、三井が更生するやいなや、家との距離が一気に縮まった。

以前から三井母は家に男手がなくて困るとブツブツ言っていた。つまりそれが三井だ。三井父は仕事であまり家にいないし、三井母も母もフルタイムで働いているので、が心配なのだという。小学生じゃあるまいし、いくら女でも高校生がひとりで困ることなんかねえだろと三井は思うが、聞き入れられない。

三井の方も普段は部活という正当な理由で逃げ回っていたが、期末前でしかもが臥せっているという状況では母親に逆らいきれなかった。マジメにおベンキョーしますなどと嘘をついてみたところで、そんなものは今夜にでもバレる。支援物資を届けに行くくらいならまあいいか、と三井は肩を落とした。

「ウィダー4、プリン、スポドリ4、冷却シート、チョコBハイパー3」

母から届いたメールにはへ届けて欲しいという品がずらずらと書かれていた。一応全てコンビニやドラッグストアで買える物になっているが、どう考えても三井の所持金が全て飛ぶ。部活はやってないけど腹も減ったし、ついでに自分の食べるものも買おうと考えていた三井はまた肩を落とした。

のことは嫌いではない。中学から部活のせいで会う機会は激減したが、それまではちょくちょく家族同士で遊んでいたし、本人も明るくて可愛いのでそこは問題じゃない。ただ三井が肩を落としているのは、が現在ちょっとした構ってちゃんになっているからだ。

まあそれも、誰に対しても構ってちゃんではないので、厳密には違うのかもしれない。が構ってちゃんになるのは、三井母と三井だけ。それは言うまでもなくに取って唯一頼れる相手だからなのであるが、母はともかく息子の方はちょっと面倒だ。――もう子供ではないので。

コンビニで支援物資を買い揃えた三井は、指示された品の個数をごまかし、帰ってから自分が食べるものもしっかり買っての家へ向かった。母子の住むマンションは三井家の近所だし、さっさと届けてさっさと帰ろう。そして少し腹に詰め込んだら練習に行ってしまおう。そう考えていた。

マンションとは言っても、エレベーターすらない古い集合住宅で、周囲の住環境も含め、単身入居者がいないという理由で決めた家だ。三井は家の部屋の前に立ち、インターホンを鳴らす。応答なし。ドアを叩いてみる。応答なし。そこで三井は思い出して携帯を取り出し、に電話をかける。

「起きてるか? 玄関開けろ、支援物資持ってきた」

は、家にひとりでいる時には決して来客の応対はするなと三井母にきつく言われている。宅配便も無視するように言われているは、もちろんインターホンにもノックにも反応しなかったというわけだ。だが、やってきたのが三井となれば話は別だ。すぐに通話が切れてドアの向こうでドタバタと音がする。

嫌な予感がした三井は一歩下がる。次の瞬間、ドアが勢い良く開いて、が飛び出てきた。

「来てくれたの、ありがとう!」
「いや支援物資うわっ」

赤い顔をしたは、コンビニの袋を渡したらそのまま帰ろうと思っていた三井に飛びついた。

「風邪引いてんじゃなかったのかよ、おいこら離せ」
「引いてるよ、熱あるし喉も痛いし寒いし」
「だったらベッド戻れバカ!」
「抱っこして連れてって」
「断る」

を引き剥がした三井は背中をぐいぐい押して部屋に入る。これだから嫌だったんだ……

「これ、ウチのババアが」
「ババア言うな!」
「立て替えたのはオレだからな、ありがたく思え」
「うん、ありがとう」

は三井が来たので窓を開けて換気をし、マスクを掛けた。インターハイを控えた大事な体である。万が一にも伝染ってはいけない。三井家からの支援物資を受け取ると、咳き込みながら冷蔵庫にしまい始めた。

「なんだよ、ほんとに風邪か。オレやるから貸せ」
「えっ、いいよいいよ、座ってて。あ、アイス食べる? お茶しかないんだけど、あ、カレーあるよ!」
「アホかお前、遊びに来たんじゃねーんだよ」
「えっ、違うの!?」
「違うよ!!」

途端につまらなそうな顔をするが、とりあえず三井にはここへ遊びに来る理由がない。

「つーか、そんなゲホゲホ言いながらアイス食うじゃねーよ。さっさとベッド戻れっつってんだろ」
「えー、だけど寿くん来たんだし」
「だから遊びに来たわけじゃないだろ」

喋るたびにゲホゲホ言うに買ってきたばかりのスポーツドリンクを持たせると、三井はまた背中を押して追い立てた。パジャマ代わりらしいパーカーの背中には何も段差がなくて、三井はそれを意識しないように頑張る。だからひとりで来たくなかったのに。

「そういえば期末前だもんね、部活ないのか」
「まーな」
「ここで勉強していきなよ」
「いかねーよ」
「あ、わかった、勉強しないつもりだ」

部屋には入ったが、ベッドに座ろうとさえしない。は背中を押す手が離れると、くるりと振り返り、だらしなく外に出してある三井のシャツを引っ張った。三井を見上げる目は赤く充血していて、はしゃいではいるが、つらそうだ。

……熱は」
「えーっと、37度8分」
「けっこう高いな、デコ、貼るか」

冷蔵庫に入れておいた冷却シートを持ってきた三井は、まだ立ったままのの額に貼り付ける。やはり肌が熱い。病院には行ったんだろうか。詳しいことは知らないけれど、母はいつ帰ってくるんだろう。

「きもちー」
「薬は飲んだのか?」
「解熱剤だけ一応。熱が出てきたの昼ごろだし、この状態で病院行くのもつらいし」

冷却シートを貼ってもらったはにこにこしながら、また三井のシャツの裾を摘んでいる。

「チョコBも飲んどけよ」
「はーい」
「んじゃ、寝ろ」
「やだ」
「やだじゃねえ!」

の肩を掴むと、三井は無理矢理ベッドに座らせる。パーカー越しでも肩が熱い。だが、も三井のシャツの裾を離さない。どころか腕を引っ張ってベッドに座らせようとしてくる。

「帰らないでここにいてよーひとりだとつまんないんだもん」
「つまんないとかそういう問題かよ。寝てればいいだろ」
「もう散々寝たもん。眠くないよ」

普段ならもアルバイトをしているから、学校が終わって延々ひとりきりということはない。しかし風邪を引いてしまって学校もバイトも行かれないと寂しいのかもしれない。それはわかるが、三井はとりあえず今すぐ帰りたい。潤んだ目で帰らないでと言われると気持ちがグラついてしまう。

三井は考える。気持ちはグラつくが、とりあえず帰らないことにしてを寝かせ、なんとか宥めて眠ってくれたらこっちのものだ。眠くなるタイプの風邪薬がないのが悔やまれるところだが、側にいてやれば気持ちが落ち着いて眠くなるかもしれない。

「眠くなくても横になってろ。寒いんだろ」
「うん、ぞくぞくする」
「さらっと言うなよ。ほら布団入れ」

三井がベッドに座ったので、は大人しく横になって肌掛けを被った。はすぐに手を出して、三井の指を掴む。三井はまた偉そうに文句を言った上で、手を繋いでやる。

がこんな風に三井に甘ったれるのは、母子家庭になってからだ。それまではどちらかと言えばの方が気が強くて、バスケットのこと以外は割とどうでもいいという生活をしていた三井の方が大人しかった。だが、特に三井が更生してからはこんな風に全力で甘えるようになった。

寂しいというのももちろんあるだろう。だけど、にも友達はいるし、学校もバイトもあるし、母親だってをほったらかしているわけじゃない。母子仲はいい。なので、三井はこのの構ってちゃんは別の理由があると考えている。簡単に言うと、三井に父性を求めているのだと思っている。

つまり、失った父親の代わりだ。子供の頃の癖で、文句を言いつつも三井が優しくしてくれるのをわかっているから、はつい甘える。三井がグレて離れていたせいもあるだろう。それはわかる。理屈としてはわかる。

が、そんなことは大変迷惑な話だ。

「寿くんとこ小母さんも遅いんでしょ」
「遅いっていうか、まあ20時くらいか」
「うちもそんなもんだよ。ご飯食べていきなよ」
「なんでそうなる」
「いいじゃん帰らないでよ〜」

は父の代わりを三井に求めているのかもしれないが、三井は父親になってやるつもりなんかない。

「ていうか、うちもそんなもんて、お前メシどーすんの」
「なんか冷蔵庫にあるものを適当に」
「はあ!? 風邪引いてんだろ、大丈夫なのかよ」
「んじゃ寿くん作ってよ」
「料理なんかできねーよ」

繋いだ手が熱い。額は冷やしているけれど、は顔が真っ赤だ。熱が上がっていたらどうしよう。少し不安になった三井だが、だからといって何も出来ない。病院に連れて行くにしても、この辺りの病院事情など知らないし、自分の財布は空っぽだし、を歩かせるのは可哀想という気もする。

心配はしているけれど、父親になんかなりたくない三井は、気遣う様子を表に出さないように気を付けている。

「風邪引いてなかったらなー。私がご飯作ってあげるのに。おいしいんだよ私のナポリタン」
「へえ、そんなの作るのか」
「そんなのっていうか、バイトない時は私がご飯作るんだよ」

風邪を引いていなかったらそもそもここには来ないと思うが、それは言わない。腹も減ってるし、そんなにおいしいなら食べてみたいと思うが、それも言わない。父親の代わりになんてされたくないから、絶対に言わない。

「熱さえ下がれば作れるよ、食べて行きなよ」

繋いだ手に、もう片方の手を重ねてはすがる。手も熱い。

「こんなに熱くて何言ってんだよ。悪化したらどうするんだ、ちゃんと寝ろよ頼むから」
…………だって寝たら寿くん帰っちゃうんでしょ」

具合が悪くて気弱にもなっているらしい。は涙目で鼻をグズグズ言わせている。

本当は側にいてやりたい。熱も咳もつらいだろうから、近くにいて助けてやりたい。だけど、あんまり長い時間近くにいたくない。は何のつもりかべたべたと甘えてくるし、今もパーカー一枚でベッドに横たわり、涙目で帰らないでなどと言う。いくらが風邪でもそんなことを言われると正気を失いそうで怖い。

それなのには無防備に甘えてくる。三井は少し苛ついてきた。

「あのな、オレはお前の兄貴じゃねえんだから当たり前だろ。もう少し危機感てもんを持てよ」

精一杯怖い顔を作って言ってみたのだが、はむくりと体を起こすと、三井に抱きついた。

「いい加減にしろよ! 怒るぞ」
「怒ってもいいから帰らないで、側にいてよ」

カッとなった三井はの肩を掴んで引き剥がす。

「本当にいい加減にしろ。弱ってるお前ひとりくらい、何とでもできるんだぞ」

頑張って凄んでみせたが、はぼんやりと三井を見上げている。

……いいよ、それでも。風邪引いててぼーっとしてるけど」

そんなこと言うな。やめろ。

「寿くんがそーいうのがいいんなら、それでもいいから」

やめろやめろ。

「だから帰らないで」

やめてくれ、これ以上そんな風に言われたら、好きになっちゃうだろ!

だが、三井はの体を引き寄せると両腕に抱き締めた。もぺたりと寄りかかって腕を回す。の体はパーカー越しでもはっきりわかるほど熱い。しかも弱っているのでなんだかぐにゃりとしている。その体を抱き締めた三井は、瞬間的に全てを諦めた。

だから嫌だったのに。はいつもベタベタと甘えてきて、日の当たる世界へ戻ってきた三井をガクガクと揺さぶった。自分は今バスケットに集中しなきゃいけないのに、に気を取られている場合じゃないのに、そんなのはもう少し後にしてもらいたいのに。

お前がこんな風に甘えてくるからいけないんだ。三井は抱き締める腕に力を込める。

「ここにいてくれるの?」
「るせーな黙ってろ」
「何もしないの?」
「お前、もう少し頭冷やせ」

三井は悔し紛れに、枕元に転がっていたペットボトルを掴んでの首筋にぺたりとくっつけた。ひゃあっ、と情けない声を上げただったが、それでも嬉しそうに目尻を下げている。

「小母さん帰ってくるまでだからな!」
「じゃあご飯食べってってくれるの」
「食べてって欲しかったら熱、下げてみろ。あと寝ろ!」
「無理だよ〜」
「っせえな、お前が帰るなって言ったんだぞ。オレは甘やかさないからな」

またをベッドに横たえた三井は冷ややかな目でそう言った。が、三井が帰らないことでホッとしたのか、は全く臆することなく柔らかく微笑んでいる。そして、三井の手を取り上げて頬をすり寄せた。

「いいよ。もっと冷たくされたら、熱、下がるかもしれないね」
「そんならビシバシ厳しくしてやる」

三井はの頭を撫で、屈みこむとこめかみに軽くキスした。はくすぐったそうに身を捩ったが、すぐに両腕を伸ばして三井を引き寄せた。マスクをしたままのは、苦しそうに息を吐きながら呟く。

「そんなことされたら熱上がっちゃうよ」
「うるさい、根性で下げろ。早く治れ、バカ」
「治ったら今度は口にしてね」
「この野郎、あとで覚えとけよ」

悪態をつきつつも、三井はの頭や肩をゆっくり撫でる。この状況で我慢をしなければならないのはキツいが、風邪が完治すればこっちのものだ。ここまでさせておいてやっぱりやめましたなんてのは認めない。が甘ったれるからこんなことになったんだ。覚悟しておけ。

三井はまたこめかみに唇を寄せると、目を閉じた。

END