うつして

清田から今にも死にそうな声で電話がかかってきたのは、まだ昼にもなっていない3時間目と4時間目の間の短い休みの時だった。3つしかクラスが離れていないというのに、何の用だと思ったは、怪訝そうな顔と声をして電話に出た。すると、開口一番助けてくれと言う。

「はあ? 今どこにいるの、部室?」
「家」
……こんな時間まで寝坊?」
「違う、風邪引いた」
「嘘!?」

バカは風邪を引かないというけれど、バカでももちろん風邪は引く。だけどバカが風邪を引いても、この清田だけは風邪を引かないだろうというのがバスケット部の共通認識である。彼も人間だったらしい。

「嘘ってなんだよ、頭痛い、熱ウザい、〜助けて〜」
「助けてって何が。休んでるんでしょ、ちゃんと寝て治しなよ」
「いやもうこれ無理、オレ死ぬわ」
「風邪くらいで大げさな」
「マネージャー、助けて、死ぬ、腹減った」
……親いないの?」
「いるわけねーじゃん仕事」

そうだった。清田家は基本的に明るい時間帯には人がいない。は部内の緊急連絡網の清田の欄を思い出していた。しかし助けてくれと言われても、にはまだ授業がある。そしてバスケット部のマネージャーなので、放課後には部活がある。

そう言って切ってしまっただが、隣の席の友人に電話の内容を話すと、行ってやればいいのにと言う。

「あのバカのためにサボれっていうの」
「普段ハイパー元気だから、気弱になってるんでしょ。可哀想じゃん」
「だからって何で私が」
に甘えてるんだよー」

それが何だと言うんだ。は授業が始まったので携帯をしまい、すぐにそのことは忘れてしまった。だが、昼休みになって携帯を取り出すと大量の着信とメッセージが来ていた。にこにこしている友人にもまた突付かれたは、恐る恐る3年生の教室がある2階まで降りていった。

「何!? 清田が風邪だと!?」

海南校内のみならず全国にその名を轟かすバスケット部の部長は素っ頓狂な声を上げて驚いた。

「それほんとに風邪か?」
「本人はそう言ってます。こんなストーカーみたいなことしてるくらいだからひどくないと思うんですが」
「普段元気が有り余ってるからな……余計に気弱になってるんだろう」

部長が友人と同じことを言うので、は笑うのを我慢しつつ、あんまりしつこいのでちょっと行ってこようかと思うと切り出した。幸い午後は月イチのLHRで1時間潰れているし、支障はない。

「なので、少し遅刻をさせて下さい」
「いや、それは気にしなくていい。どんな様子か見てきてもらえば助かるし」
「出来るだけ早く戻りますので」
「何度も行ったり来たりじゃお前が疲れるぞ。今日は休んでいいよ」

まだ1年生マネージャーであるの場合、指示系統は部長か先輩マネージャーがトップになっていて、こうした許可を取るのは監督や顧問ではない。幸い今年の部長は喚き散らして権勢をふるうタイプではないので、こんな相談もしやすい。は戻るつもりだったが、部長がそう言うのだし、従うことにした。

清田の家に行くのはいいが出直しになると困るので、は駅前のスーパーで食べ物を買い込んでから向かった。あくまでも3年生などに比べれば清田は細身だけれど、よく食べる。合宿で彼が食べているところを見ただけで食欲がなくなったくらいだ。

その合宿の際に、集合が早朝だというので、清田の父親が近くの部員たちを学校まで送って行ってくれるということになった。と清田は同じ市内の別の中学出身なので、この時は清田家まで来て、そこから合宿に出発した。なので清田家の場所はわかっている。

一応近くまで来たところで連絡を入れ、到着するとインターホンを連打した。清田以外誰もいないのはわかっている。案の定ドタバタと大きな音がして、ドアから清田が転がり出てきた。思っていたより普通に風邪を引いているらしく、普段はぱっちりとした目が半目になっていて、顔色が悪い。

「マジか、お前天使かよ」
「いやー、ほんとに風邪だったんだね。全人類が風邪引いても信長は引かないと思ってたのに」

ドアにすがりついて鼻をグズグズ言わせている清田を家の中に押し込みながら、も玄関に入る。もちろん清田に「うつしてはいけないからマスクを掛ける」なんて言う気遣いは期待できないので、がマスクをする。清田は一応に背を向けて咳をしているが、意味はない。

「何も食べてなかったの?」
「風邪か、休むか、じゃあな、だもんな。冷蔵庫開けたら親父のビールと調味料くらいしかねえんだもん」
「普段あれだけ食べてんのにそれじゃお腹すくよねー。はいこれ」
「ふおおお、メシだ! ー!」

風邪のせいか感激のせいか、充血した目で清田はに抱きついた。はその頭をピシャリと叩く。

「風邪引いてる時くらい大人しくしてなよ、牧さんも心配してたよ。ちゃんと食べて早く治しなよ」
「うう、牧さんすんません……オレだって風邪引くつもりなかったんだけどさ」

言いながらまた清田は激しく咳き込み、リビングのソファに倒れ込んだ。思っていたよりひどい風邪のようで、は買ってきた食料をテーブルの上に並べると、ダイニングの椅子にかけてあったひざ掛けを取ってきて清田に被せる。清田はだるそうにソファに身を沈めて、苦しそうに呼吸をしている。

「お腹出して寝てたんじゃないの」
「子供じゃあるまいし。オレ、真冬以外はいつも上裸だし」
「んじゃまたどっかで女の子に風邪うつしたら治るよーとか言ったんでしょ」

駅から歩いてきたら喉が渇いたので、清田用に買ってきたスポーツドリンクをコップに注ぎ、ひとつは清田に差し出して、は自分でも飲んだ。大人しく受け取った清田は一気に飲み干すと、ぶすっとした顔で「そんなことしねーよバカ」と言ってむくれた。

「バカって何よ、午後サボってまで来たのに。牧さんだって今日休んでいいよって」
「えっ、そうなん。うおー、牧さんやさしー」
「だけどサボってこれ買ってここまで来たのは私!」

何が地雷だったのか知らないが、急に不貞腐れた清田の隣に座ったは、栄養ドリンクでほっぺたをぐりぐりと突っついた。せっかく学校を抜けてきてまで助けに来てやったのに、不貞腐れるとは何事だ。だが、そんなに清田はするりと抱きついた。驚いたはまたピシャリとひっぱたいたが、清田は離れない。

「子供じゃないんでしょ、何甘ったれてんのよ」
「いいじゃん、風邪引いた時くらい」
……なんでそう誰にでもベタベタするのよ、こういうことは彼女にしなよ」

バスケット部にマネージャーとして入部して以来、はこの清田の「ベタベタ」に晒されてきた。清田は先輩でも同学年でもよく抱きついたり触ったり、とにかくスキンシップが多い。男子はそれでもいいだろうが、女子であるはなんとなく気恥ずかしい。

それに、バスケット部には他にも女子マネージャーがいるというのに、清田は何か困れば、マネージャーはお母さんじゃないと何度怒鳴ったかわからない。今日のことにしてもそうだ。はマネージャーであって、家族じゃない。彼女でもない。便利な女にされているみたいで、は面白くなかった。

肩にぺったりとくっついている頭を引き剥がそうとしただったが、清田はもっとぎゅっと抱きつく。

……じゃが彼女になればいいじゃん」
「なれば、って、私がくっつきたいわけじゃないんだけど。そんな、代用みたいな――

海南に限らないことだと思うが、それでも校内随一の実績を誇るバスケット部は、そこに所属しているだけでモテる。本人はモテないと常々嘆いているが、清田も懐っこい性格で男女の別なく好かれる。だったら、そういう女の子相手にすればいいのに――

それでもつい清田のわがままを聞いてしまう自分が情けなくなっただが、清田はまた咳き込みながら顔を上げ、至近距離で止めた。マスクをしていても清田の息がかかりそうな距離だった。

「な、なによ、こういうの、やめてよ、マネージャー何だと思って――
さ、オレが誰にでもこーいうことすると思ってんの」
「するじゃない」
「部活の時だけだろ、しかも男にしかしない」
「あれっ、そうだっけ?」

てっきり先輩女子マネージャーにもやっているものだと思っていたは、驚いて声を上げた。束の間、苛立っていたことも忘れて思い返してみるが、なんだかよく覚えていない。しかもまた激しく清田が咳き込むので、はつい背中を擦る。

……が好きだからするんじゃん」
「はあ?」

ぜいぜい言いながら急に告白が飛び出てきたものだから、は思わず声がひっくり返った。

「ちょっと大丈夫? 熱でおかしくなっちゃったんじゃないの」
「なってないよ、なんでそういっつも真剣に聞いてくんないんだよ」

また咳き込む。

「真剣にって、だってそれは、そんなこと、ありえないでしょ」
「なんで」
「真剣じゃないのは信長の方でしょ、いつもふざけてて、ベタベタと……って……

言いながらは背中を撫でていた手を止めた。いつの頃からだったろうか、清田はに纏わりついてベタベタしてはと追いかけまわして――

「わかったかよ」

苦しそうな清田はまたの体に腕を回して深呼吸をする。

「わかったら優しくしろよ、風邪、引いてんだから」
「なにを偉そうに。そういうこと言うとご飯持って帰るよ」
「やだ。メシもお前も帰るな」
「何様だ!」

しかし、信長の告白が嘘ではないことがわかったは、少しなげやりな気もしつつ、苦しそうな背中に手を回して抱き返した。なんだか現実感のない展開だけど、清田に纏わりつかれてつい甘やかしてしまう自分は自覚している。好きかと聞かれれば、嫌いではないと答えるだろう。それは半分くらい好きなようなものだ。

「ていうかマスクしてよ、うつる」
「風邪がうつれば好きな気持ちもうつるかもしれないだろ」
「迷惑です」

しかしは声も立てずに微笑むと、目頭に落ちてきたキスに瞼を閉じた。

「うつりました」
「バカかお前は!」

2日後、土曜のバスケット部の部室である。に世話を焼いてもらって上機嫌だった清田は脅威の回復を見せてすぐに治った。が、今度はマスクをしていたとはいえ至近距離でゲホゲホやられたが風邪を引いた。しかも体力のありすぎる清田に割とひどい症状を出させた威力を持つ風邪菌である。

「昨日の夜救急車だったみたいで。今は落ち着いてるらしいんすけど」

報告を受けた部長はがっくりと頭を落としてため息をついた。

「お前が普段言うから気を利かせてやったのに、何やってんだバカ」
「やっぱそーだったんすか。あざっす」
「あざっすじゃねえ! 昼休みの間にん家行って来い」
「え、マジすか」

バスケット部はこれから昼休憩に入るところだ。無茶をしがちな運動部は長い昼休みを取るように指導されていて、休憩時間中に活動していると部にペナルティが来る。が、外に出ているぶんにはお咎めを受けることもない。部長に尻を叩かれた清田は慌てて支度をして部室を飛び出した。

「早くに治ってもらわないと、1年生の面倒見る人がいないから、困るんですよね」
「ほんとだよ。それをあのバカ、うつしやがって」

横からひょこっと顔を出した神と牧はまた揃ってため息をついた。

さて一方清田である。の家までほぼ走ってやってきた清田は土曜で家族がいるかもしれないということに玄関前で気付いた。が、今さら引き返すのも嫌だったし、の家の前を離れて電話をかけてみた。

「大丈夫か?」
「今はもうだいぶ。昨日の夜ちょっと大変だっただけで」
「今家の前にいるんだけど」
「はあ!?」

少し掠れた声を残して電話は切れた。そして、清田の目の前でドアが勢いよく開く。

「何で、部活は!」
「おおい、そんな急に動いて大丈夫かよ。牧さんが行って来いって言ってくれたから」
「うう、牧さんごめんなさい」

家族がいないとは言われていないので、清田は門扉を挟んでへ手を伸ばす。

「ほんとにうつっちゃってごめん。みんな早く元気になれって言ってた」
「あんたが目の前でゲホゲホやるから」
「ごめんて」
「てか入りなよ、私ちょっとつらいし」
「誰もいないのか?」

が手招くので、清田は門を開いて玄関に入る。

「うちも普段はあんまり人がいない家だから」
「食べ物あるか? オレ、買ってこようか」
「大丈夫、それはちゃんとあるから」
「あ、でもこれ、お見舞い」

清田はぶら下げていたコンビニのビニール袋を差し出す。アイスが入っている。

「え、嘘、ありがとう。どうしたの、あ、もしかして牧さんが?」
「お前なあ、それひどいぞ」
「えー、だってそれは過去の自分を振り返ってみなよ……

もひどいが、清田もそう思われるだけの実績がある。リビングにでも通されるのかと思っていた清田だが、はよろよろしながら階段をあがる。部屋に通してくれるらしい。

「食欲なかったからアイスうれしー」
「食欲ないのか? 大丈夫かよ」
「そりゃまあ、普段から信長ほどは食べないし」

部屋に入ったは、ベッドの上にぺたりと座ってアイスを食べ始める。何も言われないので、清田もベッドに浅く腰掛ける。ベッドサイドのローチェストの上に、薬だの水だのが散乱している。

「昨日の夜、救急車って、ほんとに大丈夫なのか」
「一応救急に行った方がいいか問い合わせたみたいで、そしたら来てくれるって言うもんだから」
……ごめん」
「いいって」

食欲がないという割に、はアイスをぺろりと平らげてしまった。

「ほんとにうつったら治るんもんなんだね」
……またうつすか?」

寒気がするのか、ベッドに広げてあったブランケットを羽織ったを抱き寄せて、清田は頭を撫でた。先日は清田が勢いで告白してしまっただけで終わってしまって、から返事的なものはもらっていない。

「もう免疫ができちゃっててうつらないんじゃないの」
「そんなのわかんないって」
「一応スタメンなんだし、そんなにしょっちゅう風邪引かれてたら困るよ」
が来てくれたらまたすぐ治るよ」
「それでまた私にうつるの?」

ぐったりと清田にもたれかかりながら、はくすくすと笑う。

「風邪はもういいって。……気持ちがうつるのだけで充分」

ぎくりと体を強張らせた清田は、の頬に手を添えて額を合わせた。風邪も好きな気持ちも、うつった。

「じゃあそれも、うつして」

そんな気持ちなら何度でも。そっと寄せた唇は、アイスクリームの甘い味がした。

END