「風邪? 珍しいね」
「それで、本当に申し訳ないんだけどマネージャー」
「…………また?」
藤真が珍しく風邪でくたばっていると花形から報告を受けたは、小さくため息をついて肩を落とした。は確かに翔陽バスケット部のマネージャーだが、どうも最近その業務の範囲を逸脱しているような気がしている。花形も一応申し訳なさそうな顔をしているが、本当にそう思っているかどうかは怪しい。
「そんなにひどくはないらしいんだけど、薬も食べ物もないらしくて」
「薬はともかく、なんでそういつも食べ物切らしてるのよ」
中でも藤真は部活の外のことにはとても無頓着で、きっとこの風邪も体調管理を蔑ろにして練習でもしたせいだろうとは考える。そして藤真はしょっちゅう食べるものを切らしてはに泣きつく。
「オレも部活終わったら行くから、それまで頼むよ」
「いいけど……部室の後始末ちゃんとしてね。この間窓開けっぱなしになってたから」
部員たちが練習以外はズボラなので、はそういうところにも常に気を配っているが、ひとたびが不在になると全てが緩む。花形といえどあまり信用出来ないだったが、不動のスタメンでエースが風邪となれば仕方ない。
は部室を出て藤真のアパートに向かった。
「悪かったな、わざわざ」
「いつものことだしいいけどさ。なんで毎回食べ物のストックがないの」
「腹減ってない時は完全に忘れてるから」
越境入学でひとり暮らしの藤真の部屋はあまり物がなく、普段は部活でほとんど家にいないせいか、生活感もない。しょっちゅうというほどではないけれど、何度も来たことのあるは、遠慮せずに上がり込む。キッチンで買ってきたものを解き、腹が減ったと騒ぐ藤真を部屋に追い立てると、食事の準備をした。
「具合は?」
「体温計ないからわからないけど、たぶん熱はそんなにないと思う」
「咳もなさそうだし、後は?」
「体中痛い」
「関節か」
食べ物を買うついでに薬も仕入れてきただが、風邪による関節痛に効く薬だったかどうかは怪しい。引き始めで軽い症状の風邪に効く薬をくださいと薬剤師に相談して買ってきたので、その辺りは定かでない。
に食事を作ってもらい、やっと一息ついた藤真は目の前に差し出された薬を見て顔色が変わった。
「なにこれ」
「なにこれって、薬」
「粉薬じゃないか」
「そうだけど」
「しかもなにこの漢方臭い茶色」
「みたいね、漢方成分入りって書いてある」
薬の箱を見ていたの目の前に、スッと薬が押し返される。
「飲みなよ」
「いえその、また今度」
「はあ?」
意味がわからないは藤真の横顔に素っ頓狂な声を上げた。見れば藤真は顔を背けている。
「また今度、って何が。ご飯食べたし、薬飲んで水分取って大人しく寝てた方がいいよ」
「ありがとう、もう戻っていいよ」
「何言ってんの? バカなこと言ってないで早く飲みなよ、もっと悪くならないうちに――ってアレ?」
顔を背けたままの藤真の頬が引きつる。
「もしかして、粉薬飲めないの?」
今度は藤真の肩がぎくりと跳ねる。飲めないらしい。
「えー、子供じゃあるまいし、そのくらい我慢しなよ!」
「無理無理、不可能」
「一気に飲んでその後ジュースでも飲めば平気だよ」
「味だけの問題じゃないだろ。粉は人間の喉を通らないようになってます」
「なってないよ!」
の方を見ようともせずに、藤真は淡々と拒否している。粉薬がよっぽど苦手なようだが、せっかく買ってきたのにまったく飲めませんではも困る。だいたい、この薬は12包で1780円もしたのだ。ちゃんと買い取ってもらわねば。
「粉が飲めないならなんで先に言わないのよ! 自分でちゃんと買っておかないからこんなことになるんでしょ」
「風邪なんか滅多に引かないから薬なんか常備してないよ」
「めったに引かないから用意しておくんでしょ! もう、つべこべ言わずに飲みなよ!」
「嫌だ! 絶対嫌だ!」
無理矢理飲ませてしまおうと、は薬の包みを開け、藤真の肩を掴んだ。が、藤真も必死だ。の手をガッチリと握り返し、押し返している。だが、少々熱はあるし、関節も痛いので、力が弱い。に負けそうになっている。
「飲んじゃえば楽になるって! 一瞬だよそんなの!」
「バカ言え! 飲んだが最後、次の日まで薬臭いんだぞ! 不味い味は取れないし、1回で済まないんだし」
肩や腕が痛むらしく、藤真はどんどん押し返されていく。はそれに気付くと、片手で藤真の頬をガッと掴む。両頬に手をかけられた藤真は口を開いたが、首を振って逃れる。具合が悪いくせに往生際の悪い藤真はずるずると這って逃げ出す。
「あっ、こら! いい加減にしてよ、ひどくなったらどうするの」
「そんなもの飲むよりマシ」
「エースがなに甘ったれたこと言ってんの!」
「エース関係ねえだろ!」
のろい匍匐前進で逃げていた藤真はあっさりと捕まり、は藤真の後ろから首に腕をかけてホールドする。関節は痛むが漢方臭い薬だけは飲みたくない藤真はまたじたばたと暴れる。なんとか藤真をひっくり返したは息も荒く、また頬を掴む。
「さーほら、観念しろ」
「お前これ虐待だぞ」
また藤真は顔をいやいやしての手から逃れる。片手に封の開いた薬を持っているので、も上手くホールドしきれないでいる。その上、どうにかして逃げたい藤真は、思いついての太腿に手を滑らせた。はキャッと声を上げて飛び退いた。
「何すんのよ!」
「そりゃこっちの台詞だ! また近付いたら触るからな!」
「……やれるものならやってみな」
「何!?」
恐らくは早く風邪を治して欲しいという目的を忘れている。粉薬嫌だなどとわがままを言う藤真になんとかして薬を飲ませねばならないという、マネージャー根性だった。にとってこれは戦いである。粉薬を片手に、はまた藤真に襲いかかった。
逃げるのに疲れてぐったりしている藤真を捕まえると、その上に跨がり、また頬を掴んで薬を近付ける。あと少しで薬が口の中に、というところで、急に暴れるのを止めた藤真は、を見上げて手を伸ばし、頬に触れた。急にそんな状態になったはつい手を止めた。
「、愛してるよ」
「は!?」
あまりといえばあまりに唐突な愛の言葉には仰天、その隙を見逃さなかった藤真は、力を振り絞って薬を跳ね除け、の両腕をガッチリと押さえると、一気にひっくり返した。形勢逆転、は床の上に組み敷かれて目を剥いている。
藤真の方も一気に力を使い果たし、すぐにぺしゃりと崩れてに覆い被さった。関節は痛いわ熱もあるわで暴れたので、ぜいぜい言っている。スカートのめくれた女の子にのしかかってハァハァ言っているという非常にアレな光景だが、一応病人だ。
そこでやっとも我に返った。これ以上ひどくなっては困ると思って必死になってしまったが、今まさに悪化しかけているんじゃないだろうか。首筋にかかる息がものすごく熱い。
「藤真、お願いだから飲んでよ。楽になるから」
「しつこいな……嫌だって言ってるだろ……あー痛え」
「それも楽になるから!」
「…………口移しなら飲む」
「粉をどうやって!」
水に溶いても全量移しきれないだろう。まだちょっと混乱しているらしいはつい突っ込む。
「粉とか以前に……出来ないくせに……何言ってんだよ」
少し息が落ち着いてきた藤真は、に覆い被さったままの体を少し縮めて、擦り寄った。はその背中を撫でながら、天井を見上げた。部屋の中には藤真の荒い息だけが響いている。
「飲んでくれるなら、やるけど」
「は?」
「それこそ粉なんかちゃんと移らないけど、飲んでくれるならいいよ!」
「え、おい、――」
「藤真のこと心配だから言ってるのに、バカ!!!」
弾き飛ばされた粉薬を少し被ってしまったは、藤真の言葉に逆ギレ。優しく撫でていた手を止め、涙目になって両腕で力いっぱい締め上げた。関節の痛かった藤真が呻き声を上げる。だが、藤真の方ものグズグズいう声に返す言葉がない。泣かすつもりなんかなかった。
「ごめん、オレが悪かったよ」
「謝らなくてもいいから薬飲んでよ〜チューでもなんでもするから〜」
の方もヤケクソだった。しかし藤真の方は反対に冷静になってきた。
「落ち着け、そんなことしなくていいから、オレが悪かったから」
藤真はのろのろと体を起こすと、の手も引いて起き上がらせ、頭やら肩やらを撫でてやる。そして、テーブルの上に乗っていた風邪薬の箱を取ると、中から一包引っ張り出し、勢いよく破って開けると一気に口の中に流し込んだ。続けてスポーツドリンクのペットボトルを掴むと、これも一気に流し込む。
ぽかんとしているの前で藤真は嗚咽を飲み込み、今度はよろよろと立ち上がるとキッチンまで行って口の中を洗い始めた。それも気が済むと、またよろよろと戻ってきてベッドに倒れ込んだ。
「藤真、大丈夫?」
「これでいいだろ、泣くなよ、もう」
ごろりと寝返りを打った藤真はベッドサイドに膝を付いているの方へ手を伸ばし、涙目の目尻に指で触れた。だが、その伸ばした腕が痛む。顔をしかめて痛がる藤真の腕をは擦ってやる。
「ごめん、」
「い、いや、私もごめん、ひどいことした」
「そんなことないよ、なんかにはどれだけ甘えてもいいんだと思ってた。そんなわけないのにな」
「……甘えてもいいよ、こんな時くらい」
「オレの場合はいつもだよ。どんなことでもに言えばなんとかしてくれるって、ごめん」
藤真が目を閉じたので、は布団を軽くかけてやり、背中や肩を優しく撫でる。
「マネージャーだから、いいんだよ」
「いくらマネージャーでもさっきのはセクハラだっただろ、それもごめん」
「どうしたの、そんなこと気にしてないよ、大丈夫?」
急に藤真が弱気になったのでは手を止めた。その手に指を伸ばした藤真は、弱々しい力でそっと握る。
「……嫌われたら困るから」
「え?」
「わがまま言って泣かして、それでに嫌われたら嫌だから」
薄っすら開いた藤真の目も、熱で充血していて、瞼を開くのですらつらそうだった。
「何にもしなくていいから、ちょっとここにいて」
熱もないのに頬が赤くなってきたは、ちょっと俯いて、だけど藤真の手をキュッと握り返した。
「別に……何かしてもいいけど……」
「はは、無理すんなよ」
「藤真」
「あ?」
擦ってもらって楽になったのか、大きく深呼吸をした藤真はだるそうな目でを見上げる。その藤真の頬にそっと手を添えたは、少し屈みこんで囁いた。
「愛してるよ」
咄嗟に投げた愛の言葉が帰ってきた。藤真は勢いよくむせて、だけどの手を引いて抱き寄せた。熱い藤真の頬にの額が触れる。漢方臭い茶色の薬を被ったせいで、の髪はちょっと変な匂いがしているけれど、藤真はその髪に唇を寄せた。
「だから、早く、よくなって」
「大丈夫、すぐによくなるって」
「薬、飲んだもんね。さっき、かっこよかったよ」
薬飲んだところをかっこいいと言われてもな。藤真はの髪を撫でながら力なく笑った。だってしょうがないだろ、好きな女が泣きそうになってて、それでも粉薬嫌ですなんて言ってられるかよ。正直今も口ン中臭いし、気持ち悪くて薬が戻ってきそうだけど、そんなこと、の涙に比べたら。
藤真はの額に触れる程度のキスをして声を潜める。
「……風邪、治ったら、口にしていい?」
だが、は返事をせずに、ぼんやりしていた藤真に唇を押し付けた。
「……うつったらどうするんだ」
「あの薬、飲むから平気。うつれば治るし、そしたら薬飲まなくて済むよ」
「バカ言うな、そしたらお前が苦しい思いするだろうが」
「平気」
そう言ってまたは唇を寄せた。
「だから早く元気になって」
しかし、の健闘むなしく藤真の症状は悪化、何度かキスしたにはまったく感染せずにどんどんひどくなり、翌日と花形に連れられて病院に行ったら、ウィルス性胃腸炎だった。
「薬関係なかった〜虐待されてまであんなクソマズい薬飲んだのに関係なかった〜」
「悪かったって言ってるでしょ!」
「虐待って何やったんだ」
「漢方系の粉薬が嫌で逃げまわる藤真を追いかけまわして捕まえて飲ませようとした」
「それは……が悪いのか?」
「悪くない気がするけど本人がそう言うから」
「お前ら病人の前で精神的ダメージを与えるようなこと喋ってんじゃねえ」
未成年がひとり暮らしなら入院してはどうかと勧められたが、本人が嫌がったので自宅療養である。そのせいで花形はしばし泊まり込み、も空いている時間は藤真の面倒を見に通うことになった。
「藤真、薬のんだ?」
「えっ、薬出てたのか!?」
「はあ!?」
ベッドでグダグダしていた藤真はころりと寝返りをうつと壁の方を向いて布団を頭まで被ってしまった。
「出てたのかってそりゃ出るでしょ、まさか飲んでないの!?」
「とりあえず昨日の夜から今朝は飲んでないと思うぞ」
「藤真!!!」
が慌てて探すと、なんとゴミ箱の中から処方薬がまとめて出てきた。中身をテーブルの上に出すと、錠剤とカプセルと粉薬が入っていた。呆れて物が言えないと花形は、ちらりと目を見交わすと、静かに立ち上がって藤真の転がるベッドに歩み寄った。
「なんでオブラート買ってきてって言えないの」
「藤真、虐待の時間だ」
布団の中の藤真はぎくりと体を強張らせたが、本日は花形がいるので逃げられない。
「嫌だー粉は嫌だー! 、頼む、愛してるからやめろ!」
「アホか、愛してるなら粉薬くらい飲んでやれ」
「藤真、これは虐待じゃなくて、愛してるからやるのよ〜私たちの心も痛いのよ〜」
「嘘だ、絶対嘘だ!!!」
花形に羽交い締めにされて動けない藤真は、今度は真っ白で苦い細粒薬を水で飲まされた。何度もえずいていたが、ちゃんと飲み下せたのでが抱き締めて背中を擦ってくれている。呆れた花形は腕組みで言う。
「体調管理の大切さが身にしみてわかったろう、ちゃんとの言うこと聞けよ」
その声に藤真は小さく「やなこった」と言い返し、今度はに怒られた。
END