アンライクリィ

インターハイは終わったが、まだまだ夏は真っ盛り。はアルバイトなど始めてみた公延の予定に合わせて東京に行ったり、夏期講習を受けたりして過ごしていた。とはいえ模試を受ければA判定、少ししくじった自覚があってもB判定という相変わらずのチート振りを遺憾なく発揮している。

そうなると元々の志望校でなくともいいのではないかという欲が出てくる。ただしの欲と言えば公延しかないので、東京の大学に行ったら公延とルームシェア出来ないだろうかなどと考えては打ち消すのが関の山だ。

そんな8月の半ば、お盆休み前の浜辺をはひとりで歩いていた。

公延がバスケットに夢中になっている間にかなわなかった、「浜辺で花火」の下見に来たのだが、近年のマナー違反のせいで花火の使用が禁止になっていた。がっくりと肩を落としたはすぐ帰ってしまうのももったいないと浜辺を歩いていた。

白い飛沫を上げる波の間で、サーファーがくるくる舞っている。

それを横目で眺めながら、は歩いていた。

本当は波打ち際を裸足で歩きたいのだが、どこからサーファーが上陸してくるかわからないので迂闊に近寄れない。まだ時間が早いので熟練の地元民が殆どだが、人が増えてくるとなどはかっこうの餌食になる。その前には帰らなくてはと思っているが、夏の海は気持ちがいい。

潮風に髪を攫われながら歩いていたは、見覚えのある顔を見つけて足を止めた。相手もそれに気付いての顔を認めると、あれっという顔になる。

「あ!」
「あ」

同時に声を上げて、同時に人差し指を差し合った。

「牧さんですよね」
「そういう君は、ちゃんだよな」

真っ黒に日焼けした牧は、サーフボードを抱えてにかっと笑った。歯だけが異様に白く見える。

「この間はどうも。騒がしくてすみませんでした」
「いやいや、清田の面倒を見てくれて助かったよ」
「残念でしたね、海南」
「まあ、それは仕方ない。あいつらには申し訳ないがオレはそのことで褒められる」

海南がインターハイを逃したのは牧が卒業してしまったからというだけではあるまいが、口さがない連中にとってはその方が面白いんだろう。海南バスケット部員たちは地獄の中にいるだろうが、牧はそれにシンクロする気はないようだ。

「しかしこんなところでひとりでどうしたんだ。家、近いのか?」
「いえちょっと浮ついた計画のためにですね……

もごもごと花火のことを白状したに、牧はからからと笑った。

「受験じゃないのか? アナソフィアは確か高校までだろ」
「いえまあそうなんですけど、すみませんちょっと勉強得意でして、志望校は余裕で行かれそうです」
「ははは、君は面白い子だな」

も可笑しくなってきて笑った。まともに会話をするのはほぼ初めてというくらいなのだが、を見ても変なフィルターがかからない牧はとても話しやすいと思った。

「そこ、座らないか」

牧は親指をくいっと傾けて浜と道路の間にある階段を指した。は頷いて大人しく着いていく。夏休みで浮かれた集団が少し離れた場所で騒ぎはじめたからだ。大きな音で音楽を鳴らし、ゴミになりそうなものをたくさん運び込んでいる。

「そういえば牧さんも東京に進学したんじゃなかったんですか」
「したよ。今お盆休みに入ったから帰省中。まだ1年目だから実家の方が楽だし――

私物を置いていた場所を空けて、に勧める。

「ここの海の方が好きだから」
「よく帰るんですか?」
「言うほどでもないよ。なんだ、木暮帰ってこないのか」
「う、まあその、私が行くのでいいんですが」

牧はまたにこにこしつつ、頷いた。バッグの中からタオルを取り出して髪をがしがしと拭いている。

……別にオレが口を出すことじゃないんだが、清田や藤真が迷惑かけたんじゃないか?」

後輩の清田ならともかく藤真まで混ぜてくるあたり、牧も遠慮がない。は吹き出さないように堪えつつ、手をパタパタと振った。もちろん迷惑だったとは言えないし、そうやって言葉にしてしまうと迷惑というほどでもなかった気がしてくる。辛かったけれど、全て幸せな恋だったから。

「大丈夫です。もう落ち着きましたから」
「この間も赤木がカリカリしてたし、なんか申し訳なくてな」
「まあその、信長は可愛い方なので問題ないです」
「それならいいが……夏祭りのとき、面倒だなと思っていたんだ」

あれからそろそろ1年が経つ。は波の音を耳に、少し感慨深い。

「信長と藤真先輩はそれがきっかけでしたね」
「なんだ、まだ他にもちょっかい出されてたのか?」
「ええまあ、主に三井寿です」

ペットボトルの水を飲んでいた牧は、口に含んだ水を勢いよく吐き出した。

「す、すまん、けど三井は――
「あのバカは途中グレてたので、その頃にちょっかい出されて、それが続いていたというか」

他の誰でもこんなことは軽々しく話す気にはならなかっただろうが、は、牧なら話してしまっても大丈夫な気がしていた。海南の卒業生だからといって清田を庇うわけでなし、完全に第三者と言ってもいいくらいだ。だいたいは過去のことなのだし、第三者の男の立場ではどんな風に感じるのかも興味がある。

「あと流川もちょっとだけ」
「へえ、そりゃまた……

浮かれた集団が酒を飲み始めたらしく、わめき声が耳障りだ。も牧も、それをなんとなく眺めている。

「それじゃ木暮は大変だったな」
「いえ、大変だったのは私で、公ちゃんはボーッとしてましたので」
「おいおい、じゃあ赤木がカリカリしてたのは――
「まあ基本的に公ちゃんがぼんやりしてるせいでしたね」

牧は肩を震わせて笑っている。バスケット選手としてはどうだったのか、それはが知る由もないことだが、この牧の目にも公延はそんな風に映っていなかったのだろう。

「まあなんだ、木暮はよく我慢したな」
「え、我慢したのは私ですけど」
「んー、まあ、君も大変だったろうけど、普通はそんなことになってたら簡単に臍曲げるぜ」

牧の前髪からポタポタと雫が滴っている。は意味がよくわからない。

「まあ心が広いんだろうな。肝っ玉の小さい男は女の子に逆ギレする」
「言い寄ってくるやつに、じゃなくて、ですか」
「言い寄ってくるやつじゃなくて、言い寄られる女が悪いと思ったりするのもいるんだよ」

そんな理不尽な、と思うが、ない話ではないのはわかる。

「君がそういう人間だってよくわかってるから、いちいちそんなことで腹を立てていても仕方ないというのもあるだろうが……君がどれだけ他の男に言い寄られても嫌いにならない自信があるんだろうな。あのてんで弱小だった頃の湘北で全国を諦めなかっただけのことはあるな」

牧が褒めているのは公延のことなのに、は頬が熱くなる。

「だから君もどれだけ言い寄られても木暮から離れられないんだろ」
「そういうことなんでしょうか。私は公ちゃんに女の子が近寄らないように妨害工作してましたけど」
「妨害工作!?」
「変な服着せたり、美容院に手を回してダサめに切ってもらったり」

ドン引き止む無しというところだが、牧はそんな表情を見せない。

「そんなことしなくても、君じゃないんだから」
「あのう、私、なんでそんなに人が寄ってくるのかよくわからないんですけど」

これは子供の頃から誰かに聞いてみたかったことだ。だが、こんなことを迂闊に不適当な人物に漏らそうものならどんな迫害を受けるかわかったものじゃない。は牧ならその答えを簡単に見つけてくれるのではないかと思った。おそらく牧も無自覚に吸引力を発揮するタイプだ。

「そりゃ、そういう人間だからだ」
……藤真先輩と同じこと言わないで下さいよ」
「おお、あいつもそう言ったかそうか、じゃあな〜」

まるでお父さんみたいだなとは思った。言ったら傷つくだろうから言わないが。

「そういう能力を持った人間、でどうだ」
「どうだと言われましても」
「足が速いとか手先が器用とか、そういうのと同じだ。君が何もしなくても、人は君に惹きつけられる」

本当に藤真と同じ理屈だ。牧は打ち寄せる波を見つめながら目を細めた。

「おそらく、君に惹かれる方も特に理由なんかないんだろうさ。後でこうなのかもしれないと説明を与えてやりはするだろうが、気付いたときには好きになってるんじゃないか? だから君は理由が見えない、意味がわからない。だって理由も意味もないんだからな。そんなもの求めても、存在しない」

理不尽な理由を自分に与えていた藤真よりはわかりやすい。は小さく頷いた。

「例えば……そうだな、例えばだぞ。今君がオレに手を伸ばして『ふたりでどこかへ逃げよう』って言ったとする」
……何の理由もなく?」
「そう。ちゃんと話したのは初めてに等しい君にそんなことを言われたとする。オレは多分その手を取るよ」
「まさか……
「その『まさか』が君だ。君は人に有り得ないことを起こさせる」

は、今まで自分に纏わりついてきた男たちを、わけても流川を思い出していた。

流川は牧の言う「まさか」に飲まれた。理由なんかない、意味もない、自分でもわからないままに好ましく感じてしまう。彼はその闇から抜け出せただろうか。未だにその闇の中にいる疑惑が払拭出来ない藤真や三井はどうしたらから解放されるだろう。

「まあオレは3日くらいで正気に戻る自信があるけどな」
「藤真先輩とかが正気に戻らないのは……
「それが君の特質だとは思ってないからだろ。自分の判断と正当な理由で好きなんだと思ってるからだ」
「牧さんすごい、なんか全部説明ついちゃったような気がします」
「そりゃどうも。お役に立てたならなにより」

女子校育ちで、こんな風に年上の男に真面目な話をしてもらう機会のなかったは、大いに感嘆している。赤木も今では器の大きな頼れる兄にも等しいが、実直なだけにこんな風に「人を読む」タイプではない。ましてやそれが色恋沙汰の話であれば尚更だ。

「みんな早く私のことなんて忘れてくれたらいいのに」
「君が姿を現さなくなれば自然と忘れられるよ。早く木暮のものになることだな」
「あっ、なりますなります。予約入りました」

こんな風に気軽に話せるのが嬉しいは左手を挙げた。ルビーが光る。

「うわ、マジか! なんだ、それなら何も心配要らないじゃないか」
「いえその、藤真先輩もミッチーも信長も、きっと彼らを好きな子はたくさんいると思って」
「まあそうだろうが、やつらはよかったんだよ、それで」
「え、どういう……
「これだけ君に惑わされて結局手に入らなかったんだ。もう惑わされないぞ。真剣に人と向き合うだろ」

特に藤真、と牧は付け加えてニヤリと笑う。

「女の子にきゃあきゃあ言われて、何を言ってもやっても否定されたり断られたりしない。意味もなく褒められておだてられる。そんな環境になってもおかしくないだろ、あいつらは。そんなの、人として不幸だ。でも、君を想って想って苦しんでも手に入らなかった、それがあいつらをもっといい男にしてくれるはずさ」

そんな風に言われては、自分が誇らしくなってしまう。はちょっとだけ口元を緩ませた。

「そうは言ってもこりゃ君は一生付いて回る問題だろうからな、頑張れよ」
「牧さんは彼女いないんですか」
「今のところ。どうしたってオレはバスケの方を優先するから、女の子も可哀想だしな」
「そんな忍耐力のない女は相手にしなくていいですよ」
「そうじゃない子が見つかればいいけどな」

は心の中で牧に語りかける。大丈夫、あなたなら必ずいるから。

少し離れてはいるが、酔っ払いが羽目を外し始めた。それを見越していたのか、牧は簡単に帰り支度を済ませていた。家が近いのかもしれない。すっと立ち上がる牧を追っても立ち上がり、お尻をはたく。

「帰り、歩きか?」
「そこからバスに乗ります。で、駅まで」
「そうか、じゃあバスが来るまで」

荷物を抱えた牧はさっさと歩いていく。は小走りで牧の背中を追いかける。あくまでも赤木などに比べれば背は高くないが、18か19にしては異様に逞しい体をしている。公延がほっそりして見えるほどだ。

そうやって歩いていると、前方からが目指す方面のバスが来た。バス停まではまだ少し距離がある。

「あ、バス来たぞ、走れ!」
「えっ、あ、ほんとだ! 牧さん、ありがとうございました! 感謝してます!!」
「木暮と仲良くなー!」
「はーい! バスケ頑張ってくださーい!」

背負っていたリュックのショルダーストラップを掴むと、は迷わず走り出し、走りながら叫んだ。

サーフボードを抱えた牧を振り返らずには走った。停留所でこれまた海で騒ぎそうな若者を下ろしていたバスに乗り込み、手摺に掴まって窓の外に目をやる。すぐに走り出したバスはが来た道を戻り、牧のいる場所を通り過ぎた。

は車内から大きく手を振った。牧も軽く手を上げて応えてくれた。

牧さん、なんて大人なんだろう。かっこいいな。あんな先輩がいて、信長うらやましい。はそんな幸せな気持ちで空いた席に座った。公延と浜辺で花火は出来そうにないが、牧に会えてよかった。話が出来てよかった。

牧の方も走り去るバスのに手を挙げて見せ、バスが行き過ぎると少し歩き出し、また海を振り返った。

いつでも好きなときに来られた海は久し振りで、けれど何も変わることはなく、自分を飲み込んでくれた。東京に進学して1ヶ月くらいは海が恋しくて仕方なかった。潮の匂いのしない町は息が詰まるかと思った。

何より体に馴染む潮風が吹き付け、自分の言葉が蘇る。

「ふたりでどこかに逃げよう」

有り得ないことを起こす、それが君だ。人の「まさか」を呼び起こす。髪を潮風に晒すの笑顔が恐怖のように襲い掛かってくるのを感じた。とんでもない「能力」だ。それに囚われた藤真も三井も清田も災難としか言いようがない。

手を伸ばされたら、きっとオレはその手を取る。

手を伸ばさないでくれてありがとう。

牧は潮風にの面影を委ねて目を閉じた。

END