夏休みを境に身辺が妙に慌しいは、アルバイトのシフトを減らしている。今月は平均すると週2回というところ。元々退屈しのぎと鬱憤発散のためにしていたので、必要がないなら辞めてしまってもいいのだが、1年以上も勤めていれば愛着も湧いてくる。
それに、が働いているアイスクリームショップはスタッフも客もほぼ100パーセント女性なので、気楽なことこの上ない。逆に女の園であることが災いして稀に変なのが乱入してくることもあるが、最近では即通報という手段に出ることにしている。交番も近いし、親切な初老の警官は何度呼びつけても穏やかに対応してくれる。
学校が終わってからの勤務なので一応は17時からということになっているが、それだと時間が少し空いてしまうは早い時は16時くらいからカウンターに立っている。16時55分を過ぎてからタイムカードを押しにいくので少々タダ働きをしているわけだが、自宅に帰ってから出直す方が慌しくていやだった。
現在19時。この店舗は閉店が20時で、調理器具などの洗浄をして店を出るとだいたい20時40分を回っている。
さらに言うとこの日は木枯らし1号も既に通り過ぎた11月も下旬である。北風が勢いを増しつつあるこの数日は日が落ちると客足ががくりと減るようになっていた。温かいドリンクなどもメニューにあるが、わざわざアイスクリームショップにコーヒーだけ飲みに来るような客はいない。
そんなわけでカウンター内にいるアルバイトふたりは大変暇である。今日と共にシフトに入っているのは同い年の超がつくくらい大人しい女の子だった。例の三井の仲間たちの件で真っ先に辞めたいと言い出したのもこの子だった。
そこへ自動ドアが開く音がした。来店を告げるベル音とともにともうひとりのアルバイトは「いらっしゃいませ」と声を上げた。次の瞬間、「あれっ」と声を上げるに被せてもうひとりの女の子は「ひゃああっ」と薄っぺらい悲鳴をあげてしまった。
「……いやあの、ごめん」
怯えるもうひとりの女の子に複雑な表情で謝っているのは、三井寿。数ヶ月ぶりの来店である。
「あ、大丈夫大丈夫、もう更生したから」
「わ、わたし、バックヤード掃除、掃除してきます」
「いや大丈夫だってー」
哀れな少女はカウンター奥のキッチンにへばりつくようにしてバックヤードに逃げた。今日は閉店時まで店長も来ないことだし、まあいいかとは黙認した。元々客も来ないのだし、三井は前科があるものの、今でも一応客である。応対せねばなるまい。それに、先日公延と街に出かけた際にも助けてもらっている。
「この間はありがとねー。けど、ひとりで乗り込んでくるとは、勇気あるねー」
「荒らしに来たわけじゃねえよ」
「ほーほー、じゃご注文はー?」
「えっ!? そ、それじゃコーヒー……」
は耐え切れずに吹き出した。何しに来たんだ。まさかとは思うが考えないことにしている。
「なんだよ、おかしいか!」
「だってわざわざコーヒー飲みに来るようなところじゃないでしょ」
「あーそうだよ、部活早く終わったから寄ってみたんだよ」
「で、入るつもりはなかったけど店内誰もいないしいいやとか思って入ってきた」
「お前すげえな」
が言い当てたことと寸分違わぬ経緯で店内に突撃してきた三井は素直に感心した。
「中間のとき以来だけど、みんな元気にしてるの」
「ああ、変わんねえよ。毎日ずっと練習してる」
「リョータくん、キャプテン慣れたのかな。毎日アヤちゃんに怒られてる?」
「あんなのまだまだだ。厳しくしてるつもりらしいが、今のところ彩子の方がキャプテンみてえだしな」
その様子がありありと思い浮かべられて、はまた笑った。
「花道と流川は? いい子にしてる?」
「いい子ってお前な。相変わらずギャーギャーやってるよ。果敢にも最近桑田が仲裁に入りだした」
「くわたくん?」
「あ、悪い、桜木たちと同じ1年……そうだよな、お前、アナソフィアだもんな」
「何を今更」
はコーヒーを用意してカウンターに置いた。慌ててポケットをまさぐる三井にはカップを差し出す。
「あ、いいよ、奢り。ゆっくりしていって」
「えっ、悪いな。って別にオレコーヒー飲みに来たわけじゃ」
「じゃあアイスも食べる? クレープ焼いたげようか」
も三井がちょっと顔を出しただけではないことくらい、よくわかっている。だが、アルバイトとはいえ今は勤務中なのだし、出来れば深刻な話にならないように仕向けたかった。逃げもせず頑なになりもせず茶化していれば、三井は本当の目的を言い出せずに帰るかもしれない。それを期待していた。
「アイスって外すげー寒いぞ、ってそうじゃなくて!」
「ミッチーって意外とノリやすいよね」
「、お前わざとやってるだろ」
あーあ。は三井に気付かれないようにため息をついた。まあ、スーパースターから転落して入院するほど喧嘩してただけのことはあるかあ。すごい度胸だな。ああそうか、インターハイとか行って勝負してくるんだもんね、このくらいでビビってられないかあ。
「ここ終わるの、20時半くらいだろ。待っててもいいか」
「……そのあとどうするの」
「送ってく」
よくもまあ照れもせずに言えるものだとは少し感心した。そこらの少年とは腹の括り方が違うようだ。それは自信があるからなのか、それとも敗北を恐れないからなのか。どちらにしても厄介だ。
「今みたいな話、したいだけだよ」
「いやだって言ったら?」
「今日は諦めて帰る」
「今日は?」
「オレは諦めが悪いんだ。またこういうチャンスがあれば、もう一度誘う」
それにしてはがつがつした熱っぽさを感じさせない。心から正直に言ってるだけなのだろう。
私には公ちゃんがいるから、そういうことは出来ない。なんでそうすぐに言えないんだろう。は営業スマイルが剥がれ落ちていくのを感じて少し視線を逸らした。なぜだかこの三井のアプローチには逆らえない気がしてしまうのだ。
それはたぶん三井が公延のことをまったく考えていないから。
彼にとってはと自分の駆け引きであって、が公延とどんな関係であったかなどは問題ではない。好きになってしまった女の子と再会してみたら、チームメイトの彼女だった。だけどそれ以前に始まってしまっていたから。
公延を蹴落としてと付き合いたいとか、の心を公延から遠ざけようとか、そんなことは微塵も考えていない。ただのことが好きだから、にも自分を好きになってもらいたいと願っているだけで、他には何もないのだ。そんなひたむきな想いを無下に扱ってはいけないような気がしてならなかった。
それに、ぐらぐらと心を揺らされるのにも少し疲れている。公延はこの間から少し様子がおかしいし、面倒くさい状況にあって、なげやりな気持ちになっている。客の来ない店内の煌々とした灯りに目が眩み、はネガティブなイメージに捕われる。
例えば公ちゃんが今のように構ってくれないまま遠い大学にでも行ってしまって、彼女とか作っちゃって、私とのことなんか子供の遊びみたいになかったことになっちゃったとして、そのときに目の前にこうやってミッチーが現れたら、私、たぶんその場で落ちる自信、あるわ。
それだけ三井の想いはまっすぐで邪な影もない。ただ公延さえの心をがっちりと繋ぎとめておいてさえくれたなら、感謝の気持ちを込めて断ることも出来ただろう。だが、公延という絶対の支えが不安定になっている今のには、持ちこたえられそうにない厳しい誘惑だった。
手にコーヒーカップを持ったままの三井は一歩足を進めて、カウンターに近付く。
「おい、大丈夫か。そんなにいやなら……」
「……いいよ、待ってて。うちまで送ってって」
これが例えば桜木ならパァッと笑顔の花が咲くところだ。だが三井は柔らかく微笑むと「ありがとう」とだけ言って店内の一番隅にあるテーブルに落ち着いた。は、その後姿を見送りつつ、この人本気出したらものすごい女たらしになると確信していた。
それから閉店の20時まで、とうとう客はひとりも来なかった。その間は片付けてしまっても構わないようなものを洗浄し、バックヤードで青い顔をしているバイト仲間を宥め、閉店間際には店長が来るからと適当なところで三井を追い出し、さっさと閉店出来るようキビキビと働いた。
団体で嫌がらせのように来店していたとき、三井は従業員入り口の近くでウロついていたものだったが、今日は既に終業している隣の店の前で静かに立っていた。20時20分、いつもより早く閉店することが出来たは、店長やバイト仲間と挨拶を交わすと、三井の目の前をつかつかと歩いていき、その通り過ぎざまに「この先のコンビニ」と呟いた。三井は頷きもせず、去りゆく店長たちを確認するとゆっくり歩き出した。
三井がコンビニに到着すると、がレジで会計をしているところだった。会計を終えると、自動ドアの前で立ち止まった三井の方へ無言で歩み寄り、ペットボトルを突き出した。今度はほうじ茶である。
「帰り道寒いから、あげる」
「2度も奢ってもらうんじゃ、情けないんだけど」
「大した金額でもないんだけど……じゃあ今度なんか奢ってよ」
「おう、まかせろ。何がいいか考えとけ」
それじゃデートの約束じゃないかとふたりとも思ったが、口には出さない。
校則により学校指定外の衣服の着用が出来ないアナソフィア生徒であるは、マフラーというよりショールと言った方がいいようなニットを首元にぐるぐる巻きにしている。ただでさえ冷たいアイスクリームと並んで過ごした後の北風は殊の外こたえる。
一方常に動き回る競技で日々鍛えている三井も、室内競技であることと体脂肪が少ないせいで寒さには強くない。だが、隣を歩くは肌がより一層白くなるほどに冷えているらしい。
「ほんとに寒そうだなお前」
「ほんとに寒いよ。学校指定以外着られないんだよね」
「いやバレないだろ、コレ貸してやろうか?」
こんなところにも下心を感じさせないのが三井だ。実直とでも言えばいいだろうか、校則厳守より体調管理だと言いたいだけだというのが伝わってくる。モッズコートの襟を掴んでいるが、さてどうしたものかとは迷った。
「ミッチーって、180……」
「184」
「184がゆったりのメンズコートって、重くない?」
「あ、まだ着てないパーカーとかタオルもあるぜ」
は背中に跳ねさせていたバッグをぽんぽんと叩く三井の正面で勢いよく吹き出した。
「……お前ね」
「いやあの、すんません悪気はないです」
「無理にとは言わねえけどよ、遠慮すんなよそんな青い顔して」
「いつものことだから大丈夫。帰ったらすぐ暖めるし」
「あれだよな、ここは手を繋ぐかとか言っちゃだめなところだよな?」
こいつが一生女たらしの才能を自覚しませんように。は片手をひょいと持ち上げて問いかけてくる三井の真面目な顔に呆れた。断りもなく手を取って強引にポケットに突っ込むならまだしも、女の方から「そんなことないよ」と言い出しそうになるシチュエーションを作るとは。
「さすがにそれは。面倒くさいことにはなってるけど気持ち変わってないし」
「面倒くさいって、まだ中間のこと引きずってんのかよ」
「それだけじゃないんだけどね」
は簡単に公延が順位を落としたことと、文化祭と藤真の件を説明した。
「藤真なあ……はは、藤真がねえ」
選手としての藤真をよく知るであろう彼らには一様に面白く映るのか、三井は公延のようにへらへらと笑った。
「一応うちにもバスケ部があって、その部員が総攻撃した末に陥落したのがひとりだけってのもまた……」
「それは翔陽ちょっとどうなんだ」
「どうも悲惨なまでに噛み合わなかったみたいで。矢印が向き合わなかったというか」
「あーそれはなあ。もう少し時間があれば向きも変わったろうに」
お前本当にそれは計算じゃないのか? は疑心暗鬼になりつつある。言葉巧みに口説いているんじゃないのか? それともたまたまそんな表現が口を付いて出ただけなのか?
「そういえばこの間……駅でたまたま海南の清田ってやつに」
「ああ、清田くん」
「なんだよやっぱり知ってんのか。元気なのかとかよろしくとか言われてな」
「夏祭りのときにちょっとね」
思い返すと、色々面倒なことが舞い込み始めたのは夏祭りがきっかけだったようだ。行かなきゃよかった。はそれなりに幸せだった夏祭りを少し後悔した。百花繚乱の花火の下でのキスはあんなに幸せだったのに。
「へえ、そんなに集まってたのか。オレも行けばよかったかな」
「流川はともかく、リョータくんとかも来ててもよさそうなのにね」
「その日は部活早めに切り上げることになってたんだよ、年に一度の祭りだし。けどひとりで行ってもなあ」
「翔陽とか海南みたいにみんなで来ればよかったのに」
そういう仲の良さがないのが湘北の特徴でもある。
「赤木の妹とか桜木には誘われたけど……昔の仲間に会いたくなかったからな」
「仲違いしちゃったの」
「いや、そういうベタベタした関係じゃねえんだけど、なんとなく気恥ずかしいだろ」
「青春なんてかっこ悪いくらい言いそうだもんね、あの人たち」
は昨年からのことを思い出して、また鼻で笑った。
「あ、そうだこれはどうしても聞いておかなきゃと思ってたんだけど!」
「な、なんだよ急に」
「あのロン毛って何もしてないであれ!?」
女の子ならともかく、これでは伝わらない。三井はなんと応えたものかと口元を歪めた。
「あっ、聞き方おかしいね。伸ばしてた頃の髪って、ストパーとか縮毛矯正とか」
「ああそういうことね、ないない。伸びたままにしてただけ」
「それであのサラサラストレートなの……ちょっと頭交換しろ」
「中身まで入れ替わったらお前大変なことになるぞ」
コンビニを出てのんびり歩くこと、早どれくらい経ったろうか。の方は多少疑心暗鬼になりつつあったが、他愛もない話でふたりは楽しく会話出来ている。突然あからさまに口説いてくることもないので、の疑心暗鬼はゆるゆると崩れ始めている。
もし万が一公延に遭遇しても、偶然そこのコンビニで会ったから送ってもらっていると戸惑うことなく嘘がつけるだろう。そうなってしまっては三井は残念だろうが、じゃあここでまたね、と笑顔で手を振れるはずだ。
公延にこの状態を目撃されたら、彼はどんな反応をするんだろう。はそう考えて、けれど直後に自虐気味に笑った。きっと何も疑わず、むしろを送ってくれてありがとうな三井、とか言っちゃったりするかもしれない。なにしろ公ちゃんはチームメイトのことになると本当に視野が狭くなるから。
「ミッチーは進路、どうするの」
「あー、それはあんまり聞かないでください」
「えっ、推薦もらってるんじゃないの」
「お前は鬼か。泣きそうなんで聞かないでもらえますか」
三井はへらへら笑いながら言っているが、にはよく解らない世界で、深体大から来ていた推薦の話がなくなったという赤木のこともいまいち理解していなかった。断ったのか取り消しになったのか、それもよく解らない。三井に推薦が来ないのは普通のことなんだろうか。
「くそ、冬の選抜で推薦もらうからいいんだよオレは」
「もらえなかったら?」
「そういうこと聞くなってんだよ」
「大学生になってもバスケしたいのかあ。みんな、ほんとにバスケが好きなんだね」
「そういうお前はどうなんだよ」
はしまった、という顔を隠せなかった。
「ええと、大学はまあ受けるところ決まってるから」
は県下のみならず関東一円でもトップクラスの女子大の名を挙げた。アナソフィアからは毎年十数人は進学するので妥当な進学先ではある。アナソフィアと同じく、の母親の母校でもある。
「は!? お前そんなに頭いいの!?」
当然三井も知っている。その食いつきにはホッと胸を撫で下ろす。大学など一応の進路にしか過ぎない。の人生の目的は幼稚園児の頃に決定しているのだ。しかしそれは三井には言えない。
「そんなとこ卒業した後って何すんの……? 女子アナとかかよ」
桁違いの学力を受験校で実感したらしい三井はちょっと引き気味のようだ。無理もない。
「いやまだ受かってすらないけど。ていうか女子アナって」
「どうせその挙句が木暮の嫁とかなんだろうがよ。進学の必要あんのか?」
「え、なんで知ってんの」
言ってからは慌てて手で口を塞ぐ。ちらりと横目で見れば、案の定三井は悲しげな目つきをしている。
「……それだって別に決まってないけど」
「別に気ィ使わなくてもいいよ。期待させない方が身のためだぜ」
「……ああもう、なんなのほんとにこれ、私どうすればいいってのよ」
自分が自分を想う人の数だけ分裂すればいいのに。でもそれってなんかずいぶん傲慢な考え方じゃないか? いい人でいたいってことなんじゃないの? それとも全員いい感じだから出来るなら全員と付き合いたいとか?
話を雑談に留めようと努力したというのに、急カーブに乗ってしまった気分だった。彩子ではないが、めんどくさいことこの上ない。どうしたらいいかもわからない。考えるのもいやだ。全てがうまくいく魔法のような方法など思いつくわけがない。そんなもの、存在しないのだから。
なにこれ、私が悪いの? こんな風にしたのは誰? なんでこんな風にいらいらしなくちゃいけないの。
「お、おい、……」
「どうしてみんな、好きと嫌いのふたつだけしかないの!?」
は、泣いていた。悔しくて悔しくてどうしようもなくなってしまったのだ。
「藤真先輩も流川もあんたも! みんな好き好き言うだけだし、私は拒否しても受け入れても悪者だし!」
「お、落ち着け、てか、る、流川!?」
「あのバカもよ! アヤちゃんにはモテ期とか言われるし! いらないよそんなの!」
泣いているを宥めたいし慰めたいが、流川とは。宮城が彩子からに心変わりしたと聞かされるより信じられないと三井は思った。それを飲み込み、涙を擦り上げているの手を取りたいのを我慢しつつ、今のの爆発をまとめてみる。
「あのさあ、お前それモテ期じゃねえよ」
「はあ?」
「今までそういうことがなかったのがおかしいんだ。お前は元々そういう人間だ」
藤真と同じ理屈だ。
「小学生の頃は木暮が近くにいて、その後は女子校だ。それが防壁になってただけだ。その証拠にバイト始めた途端にオレに目をつけられただろうが。オレたちが喧嘩した連中だってお前目当ての人間がいたはずだ」
鼻をぐずぐず言わせながらは黙って話を聞いている。
「木暮もいなくてずっと共学なら、お前はもっとこういう事態に慣れてたはずだ。そんな状況でも困らないヤツを選んで付き合って、女相手にもひがまれないように上手く立ち回ってただろうよ。だけどうっかり木暮を通じて色んなヤツと知り合っちまったからこんなことになってるんだろ。だから余計面倒なことになってる」
自身も当事者である三井だが、藤真たちとは開始地点がひとりだけずれている。こうしてに近付いていけるのも、きっかけに公延を挟んでいないからこそである。
「けどまあ、流川とは恐れ入るよ。今のあいつを見れば軽症だったってわかるけど、大した女だなお前は」
「嬉しくないよそんなの。もうほんとやだ」
「…………オレにしとけよ」
「なんでそうなるのよ」
真正面に立って足を止め、俯いた三井はの袖口を指先で摘んでいる。
「もし今ここに木暮が現れても、あいつはオレを疑わないぜ。嫉妬もしない」
もそれはわかっている。悔しい上に悲しくてまたぼろぼろと涙を零した。
「オレはそんなの無理だ。オレなら、バスケさえなかったら、殴りかかるかもしれねえ」
そんな風に公延が一言でも言ってくれていたなら。冗談でもいい、を誰にも奪われたくないと言って、伝えてくれていたなら、こんなに心を揺らされて戸惑うこともなかったのに。は目の前にいるのが三井だということも忘れて嗚咽を漏らした。
「そんなの、お前が一番よくわかってるだろ。中間のときもそうだったじゃねえか」
「もうやめて」
「そんな思いまでして、それは本当に好きってことかよ? 習慣を変えられないだけじゃないのか」
「違う違う、そんなんじゃないよ、違うもん」
三井も止まらなくなってしまった。こんな話をするためにのバイト先に突撃したつもりではなかった。まるで付き合ってるみたいに雑談しながら帰ろうと思っただけだった。木暮は迎えになど来ないから、それなら自分がやってやろうと思っただけだった。
「お前がそう思ってても、あいつはそうじゃないかもしれないだろ」
冬の乾いた空気の中に、パン、と鋭い音が響いた。が三井の頬を殴ったのだ。
「……さすがにお前でも図星だと言葉じゃなくて手が出るんだな」
喧嘩に明け暮れていただけのことはある。三井はの平手打ちを食らった頬を指先で掻いている。うっすらと赤くなっているが、ダメージはないに等しい。は泣いたのと急に動いたのとで、息を切らしている。
「ねえ、こんな風にされて、それであんたのこと好きになんて、なると思うの?」
「思うね。邪魔になっているのは状況であって、オレたち自身じゃないからな」
「状況? 家が隣で親が仲良い公ちゃんが消えるとでも?」
「消えるんだよ。お前ら全員ずっとあの家で一生過ごすとでも思ってんのか」
「そ、そうじゃないけど、そんなの、みんな悲しい思いするじゃない」
「親と隣の家族のためだけに生きてんのか、お前」
は生まれて初めて口で負けた。
それは単にや公延が置かれている状況の裏を三井がよくわかっているからで、なおかつがそれを絶対に認めたくないからではあるのだが、口で負けるなどそんな経験が皆無のはどうしていいかわからずに唇を震わせている。
「ベンキョーの方は激しく落差があるけど、その他のことは全部自信あるぞ、オレ」
失敗を恐れない上に自信もあったようだ。袖口を掴んでいた指を滑らせて、三井はの指に絡ませる。その指をゆっくりと引いて、ふたりの間の距離はこぶしひとつも入らないほどに縮まった。
「それに、お前は木暮がいるって状況さえなかったらとっくに落ちてる。自分でわかってるだろ」
視界が再度じんわりと滲む。眼球が燃えるように熱い。は消えてなくなってしまいたかった。確かに、もし公延に捨てられてしまったらあり得る話だとは思った。けれどそれは万に一つもあってはならない仮定の話。それを感づかれたなんて。そんなに私はなびいているように見えたというの……?
私、公ちゃんが好きだよ。ねえこれは間違いないよね、ずっとずっと好きだったんだよね?
そう、思い込んでるだけなの?
は悲鳴をあげそうになる唇をギュッと結んで耐えた。そんな恐ろしいことをなぜ思いついてしまったんだろう。公延が離れていってしまいそうな心の隙間に入り込んできただけの三井が、の領域の中にどんどん侵食してくる。それは安易な道という誘惑であり、公延に求めて止まなかった愛情表現でもあった。
どうして公ちゃんはこんな風に言ってくれないの、どうしていつも真剣に向き合ってくれないの、どうしてミッチーなの、なんで公ちゃんじゃなくてミッチーなの。私ばっかり公ちゃんが好きみたいで、どうやってこの状況に抗ったらいいかわからないよ。付き合うって何? 好き、って何?
「……悪かったな、好きになって」
か細いけれど低く重苦しい声だった。少し上から目線のもったいをつけたようないつもの喋り方ではなく、緩んだ心の入り口からするりと漏れ出たような言葉だった。はその声に顔を上げて三井の顔を見ようとした。だが、真正面に三井の顔はなく、それに気付いたときには唇を塞がれていた。
公延のものとは何もかもが違う、不思議な感覚だった。感触が違う温度が違う角度が違う強さが違う形が違う。それに気を取られたほんの一瞬の後には全身を這い上がる恐怖と羞恥で気が遠くなった。
すぐに離れた三井は、足元を崩してよろめくの背中に手を回して引き寄せ、キュッと抱き締めた。の体は冷たくて、三井はコートを開いてくるみ込む。だらりと両腕を垂らしたは三井の腕に支えられて辛うじて立っているが、殆ど自意識がなかった。
どれだけそうしていただろうか、も三井も何も言わなかった。けれど、の思考が息を吹き返すと、三井は大人しく解放した。は弱々しい力で三井を押し返し、痺れる唇を無理矢理動かした。
「そうだね、公ちゃんがいなかったらもっと話は簡単だったかもしれないね」
はゆらゆらと頭を振る。答えは同じだ。それだけは捨てられない。
「こんな風に想われて嬉しくなって、ラブラブになってたかもしれないよね。……だけど、だけど、それは、そんなのは、藤真先輩だって流川だって同じことだよ。誰だっていいんだよ、そんなの」
そう言ってしまうと、は頭がすうっと冷えていくのがわかった。
「ミッチー、ありがとね、好きになってもらって嬉しいよ、私もミッチーのこと好きだよ」
その「好き」の意味が望むものでないことを感じて、三井は口元を歪めた。の言葉に肌が痛む。
「だけど――私の人生を壊さないで」
するりと脇を通り過ぎてが去っていく。11月の冷たい風がその後を追ってくるくると吹き抜ける。三井はほんの少しだけ俯いた後、振り返ることはせずに静かに歩き出した。ポケットのペットボトルがぬるく指先を暖める。繋いでいたの温もりを失った指先が痛いような気がする。
認めたくはないけれど、負けることはわかっている。勝てない。どうあがいてもの中にいる公延には勝てない。そんなものは関係ない、と自分の1対1の問題だと思おうと努めてきたけれど、叶わなかった。
は公延に蔑ろにされているのだし、それならば自分でもいいじゃないかと思っていたけれど、そう思っていたのは自分だけであって、にそんな選択肢はなかった。
藤真でも流川でも同じ、か――
「嘘をつくなってんだよ」
三井はの崩壊寸前の心が手に取るようにわかっていた。あの日、追い詰められて逃げ場を失って体育館の床にくずおれた自分と同じだったから。心を塞いでいる何かが剥がれ落ちたとき、溢れ出る気持ちは言葉とは正反対であることをよくわかっているから。
確かには三井に惹かれていたのだ。公延を介さない唯一の相手であり、公延がいない思い出を持っている相手は三井しかいない。公延という鎧を持たない自身が向き合った唯一の男だから。
それをわかっていて、わかっているからこそは三井を振り切った。
にとって、公延を思うということは、生きているのと同じことだから。
そっと唇に触れると、確かに触れた愛しい女の感触が蘇る。
「」
声が風に攫われて、凍りついた。
END