シフトは入っていなかったのだが、バイト先のロッカールームに忘れ物をしたので取りに戻った帰りだった。は週に1度くらいの割合で遭遇するナンパに足止めを食らっていた。繁華街を制服で歩いている方も悪いのかもしれないが、駅とバイト先との途上だ。このくらいは許されていいはずだ。
とはいえナンパする方はアルバイトだろうがぶらついていようがおかまいなしである。アナソフィアの制服に吸い寄せられて、花に集る虫のように不埒な輩が引きも切らない。
この辺りではアナソフィア女子は顔を確認する前に声をかけられることが多い。多少お好みでなかったとしても、それを足掛かりに、よりハイスペックなアナソフィア女子とお近付きになれればいいわけだ。だがの場合はそのハイスペックご本人である。逃がしてしまうにはあまりにも惜しい。
なんというしつこさ……。
は、サラサラのロン毛をなびかせて似合いもしないアイスクリームショップへ通ってきていた頃の三井を思い出したが、本日のナンパくんたちはそれを遥かに上回るしつこさだった。行く手を遮られて歩も進められない。なんならバイト先に戻ってもいいと思ったが、それも少し距離がある。
かつて、高校1年に進級して高等部の制服になった途端激増したナンパに辟易し、は度々ナンパくんを怒鳴りつけたものだった。だが、それを聞きつけた大人が助けてくれるから効果があるのであって、救いの手がないときはひとりではかえって危険である。
それを充分学んだは今もしつこく誘いをかけてくるナンパくんをどう切り抜けるかと思案しつつ、学校指定外の衣服を制服に重ねて着てはいけないという校則を心の底から呪った。パーカーでも着てしまえばバレようがないものを。
しかし逃げられそうもない。このところ男子といえばやたらとでっかいバスケット選手ばかり目にしていただが、今日のナンパくん4名もそこそこの体格の持ち主たちである。ひとりくらい突き飛ばせれば逃げようもあるが、今日に限ってもやしっ子はいない。普通体形のの手には負えない。
ちらりと囲みの外を見れば、行き過ぎる大人たちも眉をひそめてくれたりはしている。だが、公延を少し縮めて横に広くしたようなのが4人では助けを出したくても、助けにならないかもしれない。誰かさっさと交番に通報してくれないかなと願うしかないはこっそりため息をついた。
そんなことをしていたときである。の左斜め後ろ辺りにいたナンパくんが「うおっ」と呻きながら前方へ飛んでいった。思わずナンパくんがもといた方へ目をやると、黒いジャージと思しき足がニュッと伸びていた。ナンパくんは蹴られたようである。のみならず、残る3人のナンパくんたちも足に止めていた目を上げる。
吹っ飛んだナンパくんを蹴り上げた足は長く、顔まで見上げていくのに時間がかかる。そうして顔まで到達すると、それが誰であれ相当の高身長であることに気付く。はその足の持ち主を認めると、声を上げた。
「流川!」
「なにやってんだ、こんな往来で」
推定176センチ前後4人の囲みを突破出来なかっただが、その囲みの一角を蹴り飛ばしたのは187センチである。はホッとしてかっくりと肩を落とした。予想外すぎる救いの手ではあるが、この威圧感が今はありがたい。ナンパくんたちもこれでは引き下がるしかあるまい。
は流川に何を奢ってやろうかと考え出していた。だが、事はそう簡単に片付かなかった。
「流川? 男バスのか?」
「誰だあんた」
「聞いてた通り偉そうだな、富中の1コ上だよ」
ということはと同学年である。富ヶ丘中学出身のナンパくんは知った顔に年下と思って尊大な態度に出た。しかし、所属していた部活と名前と評判を知っていても、彼がどんな人物なのかまでは知らなかったようだ。調子に乗ったナンパくんは油断しきっているの腕を掴んで力任せに引いた。これは痛い。
「お前関係ないだろ、後ろからいきなり蹴るとかおかしいんじゃね」
「関係なくな――」
知り合いなのだと主張したくては反論を試みたのだが、それより早くを捉えているナンパくんの腕を流川が掴んだ。日々ボールを掴んでいる手はあまりに大きくて、ナンパくんの腕が女の子のもののように錯視してしまう。そして、流川は握力に任せて締め上げた。
「離せ」
そんな短い言葉なのに、地獄の底から這い上がってきたような凄烈さを感じて思わずは息を呑んだ。いわんやナンパくんたちも同様である。年が1つばかり上だからなんになるというのか、やっと気付いたらしい。そしても我に返る。流川は何を措いてもバスケット選手であるのだ。この程度で済ませておかなければ。
「流川、だめ、手離して!」
「どあほう、オレが離してどうする」
痛みに耐えているナンパくんだが、あまりの展開にびっくりしてさらに強くの手を締め上げてしまっている。もうを深追いする気はないのだろうが、流川の静かなる怒りのオーラの前に成す術がない。最初に蹴られたナンパくんに至ってはたちの方を見てもいない。
「あんたももういいでしょ、早く離して!」
はなりに必死だった。このままでは過剰防衛になってしまうかもしれない。怪我になってしまったら、身元の割れている流川だけが不利だ。は痛がるナンパくんの手を爪で引っ掻き、指を1つ1つ外そうともがいた。と、そこへやっと援軍が現れた。通りすがりの小父さんである。
すわケンカかと割り込んできたが、小父さんは流川が一方的にを含むナンパくんたちに絡んだのかととんでもない勘違いをしてくれた。ここはやっと手が自由になったの出番である。
「違います。彼は私の友人で、この人たちにしつこく絡まれていたところを助けてくれました。先に私に乱暴をしたのはこの人たちで、なかなか手を離してくれないのでそれをどうにかしようとしてくれただけです」
小父さんがにわかにナンパくんたちを牽制し始めると、流川は捉われていたのとは逆のの腕を掴んで引いた。やっと騒ぎが終わるかとまたも油断していたは、流川に引きずられるようにしてその場を離れた。
実を言えば帰り道とは真逆の方向に進んでいたのだが、はふいに流川に何か奢ってやるつもりだったことを思い出し、黙って引きずられていた。そして自らの腕を掴む手の大きさに、彩子の言葉を思い出した。
――それに……気付いたかな、。流川、たぶん、のこと好きよ
しかし、あまり現実感のない言葉だった。目の前の大きな手を見つめていても、先を行く高い後頭部に揺れる髪を見ていても、到底信じられない。同じ現実感のなさでも、まだ赤木や桜木の方が無理がない気がする。先ほどは思わず友人と言ったが、それも大いにずれた表現という気がしてならない。
常に赤木は別格としても、公延の手ですらなんて大きいのだろうと見蕩れてきたである。それを上回る大きさの手には妙な感心を抱いてしまう。桜木も同様に大きいのだけれど、きっとこんな風には感じないだろうと思う。あれは可愛い弟だが、この手の主は自分を想っている疑惑がかかっている。
またか、私、どうしようもないな。
文化祭の暮れ行く空の下、薄暗い教会の前で藤真の言葉に揺さぶられた自分を思い出す。唯一公延だけが好きなはずなのに、公延とは何者も入り込む隙間がないくらいに相思相愛のはずなのに、を好きだと言うのだ。が公延を好きだと知っていて言うのだ。藤真も三井も。
あんたまで同じことを言うの?
その度に公延への想いの礎が不安定に揺れてしまう。間違いではないのか、勘違いではないのか、今なら正せる誤った道ではないのか、果たしてこんな風に煩悶しているのは自分だけなのではないのか。再度そんな思考の渦に呑まれてしまうのか、お前はそんな波に私を引きずり込むというの?
悶々と考えるあまりおかしな方向へイメージが傾いたは、コンビニを目に止めて掴まれた手を引いた。
「流川、肉まん食べる?」
唐突にそんなことを言ったを見下ろした流川は一瞬の間ののち、なんの躊躇いもなく言う。
「奢りなら食う」
それを潮にやっと解かれた腕をそっとさすりながら、は肉まんを2つとコーヒーを2本買った。近くに気の効いた公園でもあればいいのだが、まだ駅から続くメインストリートの延長線上である。ぼんやりと突っ立っている流川の袖を引いて、はガードレールに寄りかかった。
「ありがとう、今日は本当にどうしようかと思ってたから助かった」
言いながら肉まんを手渡すが、流川は返事をしない。白く湯気を立ち上らせている肉まんが手から手に移動するときにも、は流川の大きな手に感嘆していた。心がときめくことはないが、今日はこの手がどれだけ頼もしく見えたことか。
彩子の言うことが事実なのだとするならば、それはもったいないとは思う。才能ある有能な選手、こんなに無愛想なのにどこかカリスマ性を感じさせたりもして、こんなところで自分と肉まん食べてるような人間ではないはずだと。
この大きな手は、自分ではなくもっと別の女の子を守るためにあるべきでは。
「先輩がするべきことをしたまでだ」
「ふあっ!?」
肉まんを齧っている最中に突然流川が口を開くものだから、は熱い生地ごしに変な声を出した。
「先輩って、誰」
「誰でも」
「今日のことは感謝してるけど、この間からなんでそう意地悪なのよ」
肉まんの台紙をくしゃりと握り潰した流川はの言葉に肩をすくめ、ゆったりと向き直った。前髪に隠れがちな釣り目が少し引きつっているように見える。はといえば、掴みきれない流川の言葉に思いの外傷ついてしまっている。流川がを傷つけるのはこれが2度目だ。
好きな子をいじめてしまう少年の心理か。いやそうではあるまい。ただ流川もと同じように自らの気持ちの正体が掴めないむず痒さ気持ち悪さに、心を持て余しているに過ぎない。その真意を掴むための鍵を握っている気がするを見ていると、答えが見つからないのは彼女のせいだと思えてしまう。
取り立てて確執があるわけでもない、どちらかといえばよく世話になった好意的に感じられる先輩の彼女らしい女の子。ひとつ年が上だが、流川にしてみれば結局は小さく頼りないただの女の子である。それが突然目の前に現れて、日本一という明確な目標に邁進する自分を掻き乱した。いい迷惑だと思う。
だが、その苛立ちを八つ当たりしてしまい、傷つくを目の前にしてしまうと、途方もない後悔が襲うのも事実だ。それでも素直に謝ることが出来るような性格ではない。
はで、なんだか泣きそうだと思っていた。自分が他人から向けられるのは思慕か悪意だけなのではないかという気がしている。どちらも極端すぎて持て余す。それに、藤真の言うようにこの夏以来急に身辺に増えたバスケ選手たちは当然付き合いも浅くて、それなのにどうしてこんなにややこしいことになっているのか。
もまた公延しか見えない時間が長すぎて、自身の持つ吸引力に対して自覚が薄い。
「助けてくれて感謝してる。だけどあんたのそういう口の利き方、すっごい腹立つわ」
一応は1学年下級である流川や桜木がに対して遠慮がないように、もまた遠慮がない。
「別に花道みたいに懐けなんて思ってないけど、ムカつく! 何が気に入らないのよ!」
流川の言うような往来である。金切り声を上げるような真似はしないが、は語気を強めて言いつつ、コーヒーを投げつけた。小さなペットポトルは流川の胸にポンと当たると、その大きな手にストンと落ちた。の手と同じくらいの350mlペットボトルがすっかり隠れてしまう。
とはいえ何が気に入らないのかと問うて答えが返ってくるようなら、それは流川ではない。
「それでチームプレイが成立してるんだから、よく解らないわ」
「……ほっとけよ」
「また言ったな。構ってないから気にすんな。だいたいこんなとこで何してたのよ」
「バスケットコート」
「え、このあたりにあるの?」
は憤慨していたことも忘れて目を丸くした。流川は、しまったという顔つきだ。
「すごいすごいとは聞くけど……私あんたたちの試合とか見たことないんだよね」
それは意外だと内心思いつつ、流川はから逃げ出したくなっている。思わず視線を逸らしてしまったが、は興味津々といった目をしている。そんなもの木暮先輩か何かに見せてもらえよと言えばいいのだが、どんな言葉がをまた傷つけないとも限らない。そのために言葉を選ぶのは面倒くさい。
「ひとりで練習してるの見たって解らないかもしれないけどさ、見たい!」
おそらくこれは宮城や桜木でも同じだっただろう。の興味に火が付いた今、たまたま目の前にいたのが流川だったというだけの話だ。三井でも同じだったかもしれないし、彼の場合シュートを続けて決めて見せればをもっと揺らすことが出来たかもしれない。
何かきちんと言葉をかけて断らない限り、は付いてくるだろう。黙って立ち去り走って撒いてしまってもいいが、それにしてはアナソフィア制服のは不用心であるし、この往来に置いて帰るのは気が進まなかった。心配という具体的なイメージはなかったけれど、それなら付いてこられる方がましだった。
「ってアレ? 今日は部活ないってこと?」
「工事かなんかで使用禁止」
メンテンナンスが入ることもあるだろう。そもそも体育館はバスケット部の占有物ではない。
流川はペットボトルをポケットに押し込むと、に断りもせずすたすたと歩き出す。もバッグにペットボトルを突っ込むと、付いてきた。のために歩く速度を落とすなどという気の利いたことはしない。だが、もそんなことは意に介さない。姿勢よくほとんど小走りにでも付いてくる。
メインストリートを外れて少しの場所に、背の高いフェンスに囲まれたバスケットコートが現れた。なかなか年季の入ったコートのようで、入り口のフェンスはかなり錆が出ていた。
「いつもここにくるの?」
「……体育館が使えないときはな」
「へえー。赤木くんが使ってるところより大きい」
キョロキョロしているに構わず流川はウォームアップを始める。はバスケットゴールの高さにへえーとかふーんとか言っているようだが、努めて無心を装う。
「近くで見るとすごく高いんだねえ、これ。これにジャンプで届いちゃうの?」
返事なし。
「公ちゃんは出来るのかな、ダンク。花道は得意っすとか言ってたけど」
ボールを使ってウォームアップ中。返事なし。
「まあ、みんな私とは身長が違うもんねえ」
「……やってみりゃいいじゃねえか」
「はあ!? 届くわけないでしょ!」
「ダンクなんて言ってない。それに女子でもゴールの高さは同じだ」
流川が片手で掴んでいたボールが飛んできた。
「私授業でしかやったことないんだけど」
は重さすら感じるボールをじっと見下ろしていたが、こちらはこちらでミス器用貧乏である。なんとなく届きそうな距離を取ると、ひょいと放り投げてみた。スピードのないボールだったが、バックボードにポンと当たり、そのまますっぽりとリングの中に落ちた。
「あれっ、入った!」
「1on1やるか?」
「……そういうところが意地悪だって言ってんの」
は拾い上げたボールを力任せに投げ返した。両手で抱え上げ渾身の力を込めて投げ出したボールはへろへろと飛んで行き、事も無げに伸ばした流川の片手で受け止められてしまった。そして、流川がドリブルをした――と思った次の瞬間には真横を抜き去られていた。
一瞬の間ののちに巻き起こる風に慌てて振り返ると、大きな流川の体が宙に浮いていて、あの重いボールは片手でリングの中へと叩きつけられていた。は間近で見たダンクに思わず鳥肌が立ち、歓声を上げた。
「すご、すごい! こんな近くで見るの初めて! すごいすごい! ダンクって迫力あるね!」
地面に落ちたボールを拾い上げた流川は、騒ぐをちらりと見もせずにまたドリブルを始めてしまった。
は黙って後ずさり、ゴールからゆっくり離れていく。公延がバスケットを始めて6年、その間1度としてバスケットの試合を見たことはなかった。試合どころか練習している風景すら見たことがない。最近になって腐る赤木をリフレッシュ目的で誘いはしたが、相手は晴子と公延で、真剣さは殆どなかった。
だが、今目の前でボールを自由自在に操って走ったり跳んだりしている流川は怖いくらいに真剣だった。いくらがバスケットに疎くても、相当に上手なんだとすぐにわかる。どうしたらそんな風に体が動くのか理解出来ない。そしてまた彩子の言葉を思い出した。
――自分がしたくても出来ないことを、あいつらは易々とこなしちゃうのよね。
本当だね、アヤちゃん。すごいね。流川だけじゃなくって、赤木くんもミッチーもリョータくんも花道もすごいんだろうね。藤真先輩とかキヨタくんも。きっとアヤちゃんだって私みたいな素人から見たらすっごく上手なんだろうね。公ちゃんはどうだったの? 私、公ちゃんに内緒にして見に行ったらよかったなあ。
ひとり黙々と練習している流川を眺めながら、は遠い目をし始めた。
「こんなもの見てて面白いのか」
「えっ、なに、あ、うんすごいなあって。面白いよ。気が散る?」
「いや別に」
中学以来女子校育ちのにとって男子がスポーツしているところは滅多に見られるものではないし、ましてや今回の場合は見ようと思って見られるレベルの選手ではない。楽しいとか楽しくないとかよりも、感心して見入ってしまう。
「きっと将来もっとすごい選手になるんだろうね。あれ、オリンピックってバスケあった?」
「……あるよ」
にとってスポーツの桧舞台といえばオリンピックくらいしか思いつかない。もちろんバスケットもあるが、生憎日本の主たるメディアは過去に栄光があるかメダルを狙えるような競技しか放送しない。がよくわからないのも無理はない。
「じゃあもしかしてオリンピックに出場しちゃうかもしれないんだね、すごーい」
上気した顔ではパチパチと手を叩いた。
「うわあ、ねえ流川、それまでずっと友達でいようよ! そしたら私絶対見に行くから!」
は知人友人がオリンピック選手になるかもしれないという空想に夢中になっている。彩子や晴子なんかと一緒に見に行こう、どこで開催されるかも解らないけれど旅行も出来て一石二鳥! そんな浮ついた空想である。
「イヤだ」
「は!?」
ボールを指先でくるくると回しながら、流川は真面目腐った顔で一蹴した。ももちろんにっこり微笑んでお友達でいましょうなんて返事が帰ってくるとは思っていない。いないが、それにしてもイヤだ、とは。
「……あんたには木暮先輩がいるだろうが」
私は友達と言ったのであって彼女だの恋人だのとは一言も……とは思ったが、緩く繰り返される彩子の言葉、そして険しい顔をしている流川を見るに、次第に確信へと繋がっていく。やはりときめくようなことはないし、藤真や三井を相手にしたときのような不安感も恐怖もない。心は少しも揺れない。
それは年下だからとか意地悪だからとか、そんなことは関係ない。藤真や三井と違うのは、この流川にはの心を揺らそうという意図が全くないからだ。人のものだとわかっていてなお揺さぶりたいという切ない想いはない。淡く微かな好意がゆったりと広がっているだけの、静かな恋だからだ。
やっぱり流川、私のこと好きなんだね。
「公ちゃんがいたら友達にもなれないの?」
「……必要、ないだろ」
きっとさっきの「イヤだ」は咄嗟に言ってしまったに過ぎないのだろう。それが友達ではない何かを望むからであったかどうか、それも自覚はないだろう。だが言ってしまってから思い当たり、認めたくないあまりに言葉を濁している。
「そういうことかな。流川にはさ、白か黒か……勝つか負けるしかないの?」
「それがルールだろ。そういうルールん中で生きてんだよ」
「それはバスケの話でしょ」
「同じだ」
流川にしては大きな声で言い切った。
「あんたもあんただ。どこでもへらへらと愛嬌を振りまくからそういうことになるんだろうが」
「そういうことって何よ? そういうことにあんたは関係あるっていうの? ないでしょうが」
「ああ、関係ないね」
「だったら余計なお世話よ。好きなだけコートの中でも外でもルールに縛られてればいいんじゃないの」
好意は嬉しいと思う。しかしときめかない。その代わりに腹が立つ。
素直に好意を認められない。だから手に入れたいとは思わない。その代わりに言い負かしたい。
はバッグを肩にかけなおして、呼吸を整える。腹は立つが、この流川という男のことは決して嫌いではなかった。桜木とは違った意味で遠慮がないぶん、何でも言える気がするし、それは向こうも同じだろう。は度々傷ついてしまっているが、反面、何を言っても遺恨は残らない。
だから友達になれるんじゃないかと思ったのだが、そう思ったのはだけだったようだ。
残念には思うが、それこそ「木暮先輩がいる」のだからいつまでも引きずるべきではない。はもう流川を解放してやろうと思った。自分もまた迷わせていたのかもしれないと思うと、申し訳なくも感じる。もう関わらないから、好きなだけ自分のルールの中でバスケットでも恋でもしたらいい。
だが、ほんの少し残る腹立たしさと、友達になれなかった無念さを込めて、意地悪をする。
「でも、私はあんたのことけっこう好きだよ」
流川が身を強張らせたのがわかる。は心の中でざまあみろと舌を出した。
「友達にもなれないみたいだけど、オリンピックに出たら見に行くからね」
皮肉も言えずに立ち尽くしている流川のそばに歩み寄り、許可も得ずに手を取って握手をした。なんて大きな手をしてるのよ、まだ15か16だっていうのに……。は感慨と共に少しだけ誇らしい気にもなる。
顔には出さずとも、戸惑う流川の手のひらが熱い。握り返そうかどうしようか、迷っている。そうして迷った挙句に握り返してみようかという気になった。それを察知したはその瞬間に手を離した。
あんたが意地悪だから、お返し。
はにっこりと笑って見せると、くるりと背を向けて黙ってその場を立ち去った。暮れ始めた空の下、駅へと続くメインストリートへ戻っていく。またナンパに遭うかもしれない、今度は助けてくれる流川はいない、それでも構わない。
音も立てないほどの、仄かで幽かな眠れる恋心。それを揺り起こすのはルール違反だ。
一方、足早に去って行ったの後姿が見えなくなると、流川はベンチにどさりと腰を下ろして不機嫌そうに髪を掻き毟った。こんなことに動揺している時間などないのに。自分はこんなことに気を取られていてはいけないのに。情けない。早く忘れないと、そんな自分はあまりにキモチワルイ。
ジャージのポケットにねじ込んでいたペットボトルに気付いた流川は、それも全て飲み下してしまおうと手に取った。キャップを捻り、少し乾いた喉に流し込む。普段コーヒーなど飲まない舌に琥珀の液体が広がってゆく。
「……苦ぇ」
への茫漠とした思いと共に、忌々しそうに吐き出した。
END