幸せな恋を

公延とインターハイ観戦の相談を終えたは、贔屓にしている作家の新刊が出ていたことを思い出し、数駅手前で途中下車をして書店へ向かった。いつか公延に置いていかれたあの街である。人通りの多い場所でアナソフィアの夏服は面倒ではあるのだが、お気に入りの書店オリジナルカバーには替えられない。

案の定書店に着くまでに2回、書店を出てすぐ1回声をかけられた。幸いしつこくなかったのでのらりくらりとかわしたは、足早に駅に向かって歩いていた。もう50メートルも行けばロータリーに入るというそのとき、今度は声をかけもしないのに腕を掴まれて、はがくりと上半身のバランスを崩した。

「なにす――
「やっぱりさんだ」

バランスを取ろうとして片足を上げた状態では声の主を見上げた。清田だった。

「き、清田くん、えっと――
「ははは、さんは優しいっすねえ。気を遣わなくていいですよ」
「でも、だって、清田くんは」
「慰めてくれます?」

雑踏の中で清田はいたずらっぽく笑った。

「慰めるって――
さん、一緒に帰りましょ。送りますよ」

有無を言わさず手を引かれて、はたたらを踏む。

「ちょ、清田くん、私――
「木暮さん確か北村中でしたよね。オレ、たぶん駅、隣なんで」
「いや、だけど」

駅前ロータリーに差し掛かったところで、清田はくるりと振り返ってを斜めに見下ろした。

「期末前で部活出来ないし、さんも知ってるでしょ、オレたち暇なんすよ」

20年近く神奈川の頂点に君臨し続けてきた海南は、とうとうその座を引き摺り下ろされたのだった。まだ2年とはいえ、常勝校で1年からスタメンを続けてきた清田は覇気のない顔をしている。

「インターハイに行かれない夏が海南にあるなんて、思ってなかったんすよ」

夏の夕日が清田の髪を赤く染めた。まるで、桜木のように。

はこめかみの辺りが痛むような気がした。もう誰かに想いをぶつけられることはないと思っていたのに、こんなところで、まさか清田とは。それなら毅然とした態度で断ればいいだけの話だ。それはもわかっている。だが、数日前にインターハイを逃した彼を見ていたせいで、無下に出来なかった。

清田に気をつけろ。

公延の声が耳元で鳴り響く。公延の言いたいことはわかっている。清田は三井や藤真と同じだ。自信家でコミュニケーション能力も高く、1学年とはいえ先輩で彼氏持ちであると知っていてなお、に声をかけ手を引いて同じ方向の電車に乗ってしまった。これは危険信号だ。

それでも、危機感を感じつつもが正面切って清田を拒否出来ないのは、試合を見てしまったからだ。

今になっては湘北見たさに観戦してしまったことを悔いた。

湘北にはもう公延はいないのだから、関係なかった。いくら彩子たちと仲がいいからといって、桜木が可愛いからといって、軽々しくあんなところに顔を出すのじゃなかった。やっと落ち着いたと思っていたのに、そうやって自分で種を撒いたのだとしか、思えなかった。

1年前の夏祭りのときは本当に子供のようだった。身長は公延と同じくらいあるくせに、ちっとも大きさを感じさせなくて、男も感じさせなくて――それが今、いっぱしの男の顔をしてを腕の下に置いている。込み合った電車の中で清田はドアに腕を突っ張り、のために隙間を作っている。

ホームに入った段階では、海南が今どんな様子かだとか公延や赤木がどうしてるのかだとかいう話をしていた。そのくらいならまだ雑談のうちだ。も公延のことについては目一杯彼女面をしてみせたのだが、あまり効いていないようだった。

そして夕方の込み合う電車に乗ってしまったら、会話がなくなってしまった。乗り込む乗客に押されて密着してしまったときはさすがに焦ったが、意外にも清田の方がちゃんと離れてくれた。そんなわけで今は清田の腕の下で体を縮めて電車に揺られている。

が下車する駅は、ものの数駅先である。清田との距離を測りかねている間に到着してしまった。ドアが開くなりホームに飛び出したを追って、清田も降りてくる。

「清田くん、この駅じゃないんでしょ。まだ遅くないし、大丈夫だよ」
「別に取って食いやしませんて。さんは木暮さんの彼女、わかってますよ」

人懐っこそうな顔で笑っているが、は警戒を解けない。わかっていたらこんなことはしない。

「清田くん、ちょっといいかな」

はホームの壁際に移動して腕を組む。

「こんなことやめようよ。公ちゃんと私が付き合ってるって知ってるんだったら――
「オレ別に略奪しようとか思ってないですって。さん女子校だし、考えすぎ」
「そうかな? 私、公ちゃん以外の人は好きにならないよ」
「それもわかってますって。さんは男と友達になれない人なんですか?」

清田の言葉にはぎくりと肩を引いた。流川の顔が浮かんだからだ。あまりにもささやかな彼の恋心と意地のために、は彼と友人にすらなることが出来なかった。宮城や桜木のように友達になりたかったのに、公延と付き合っている限り、彼は友人にもなれないとを突っ撥ねた。

男だから、公延以外の男だから友達になれない。そんなつもりはない。それはもちろんノーである。赤木や宮城や桜木は大事な友人だ。けれど、清田の言葉には簡単に頷けない。

……清田くん、嘘、ついてるよね」
「まさかあ」
「今近くに公ちゃんがいないの、わかっててやってるよね」

は上目遣いで睨んだ。

さーん、そんな顔しても怖くない」
「インターハイ行けなくて悔しいのはわかるけど――
「わかるわけないだろ!」

それまで優しい笑顔を保っていた清田は声を荒げて豹変した。だが、は納得して頷く。いくら海南が神奈川の王者でも、勝負事である以上、負ける可能性はゼロではない。その渦中にいる彼らは地獄だろうが、それにしてもなぜインターハイに行かれないと人の彼女にちょっかいを出すのだ。どこかの藤真を思い出す。

「清田くんさ、私は湘北の人間じゃないんだよ」
「そんなようなもんでしょ」
「違うよ。私、例えば湘北と海南の立場が逆でも、清田くんにおめでとうって言ったよ」

なら確実にそう言う。それがわかる清田は口を尖らせてそっぽを向く。途端に幼さが戻ってきた。

「決勝リーグ初日に言ったよね。かっこよかったよって。私は部外者だから、どっちが勝っても負けてもいいんだよ。例え湘北が1回戦負けしたって、そんな顔したりしないよ」

は男の表情が消えた清田の背中を押した。警戒せざるを得なかった危険信号はもう感じられなかった。

「そりゃリョータくんや花道は友達だから頑張って欲しいけど、勝っても負けても私は何も変わらないしさ」
「だったらオレも同じでしょ」
「少なくともリョータくんと花道とは違うよ。決定的に違うよ」
「何が――
「あのふたりには他に好きな女の子がいるから」

改札を出て、は駅前のファストフードショップへ向かう。清田は苦虫を噛み潰したせいで泣き出しそうな、そんな顔をしていた。それでもに黙って着いてきている。

「何食べたい? 奢ったげるよ」
……じゃあこれとこれと、これも」

渋りきった顔をしているが、妙に素直なところは桜木を思い起こさせた。こんな風に横から思慕を向けられているのでないなら、清田の言うように友達になれただろうに。残念でならないが、仕方あるまい。は清田の指差したベーコンオムレツバーガーとフライドポテト、レモネードをオーダーする。

自分のオーダーしたモヒートジンジャーとレモネード、そしてオーダー待ちのフラグが乗ったトレイを清田に持たせて、は店内の一番奥の席まで追い立てた。壁際で角のふたり席である。奥に清田を座らせ、は黙って正面に腰を下ろす。清田はまだ苦い顔をしている。

「清田くんで3人目なんだよね」
……何が?」

清田はもう男を装って敬語を使う気力もないようだ。レモネードを啜りながらぼそりと呟く。

「私が公ちゃんを好きだって知ってて、ちょっかい出してくる人」
「何それ、自慢?」
「まあ、ある意味では」
「はあ?」

は大きく息を吐いて、テーブルの上で手を組み合わせた。

「好きになってもらえるのは嬉しいことじゃん。それでつらい思いもしたし、今だって正直その人たちとは顔をあわせたくないけど、だからって恨んだりしてないし、想いに応えられる自分じゃなかったことは申し訳ないと思うし」
「あ、わかった。藤真さんだ」
「夏祭りのときに話したんだね」

清田はやっと普通の顔に戻った。オーダー品が届くと、何も言わずにかじり付く。

「ふうん、そうか、さすが藤真さん」
「アナソフィアと翔陽は学校同士の付き合いがあるからね」
「だからって普通追いかけていかねえよ。木暮さんなら勝てると思ったんだ、絶対」

ふん、と清田は鼻を鳴らした。彼の読みは正しい。も今なら三井と藤真の強気の理由がわかる。

「でもオレはそんなこと思ってねえ」
「だろうね」
……さん、意地悪ィな」

1000円近くも奢ってやってこの言われよう。しかしは怯まない。

「それは彼氏持ちだってわかって近寄ってくる君たちの方だよ」
「友達ならいいじゃん」
「友達だけのつもりないでしょ」

手にバーガーを掴んだまま、清田はがっくりと頭を落とした。ハーフアップにしたくせ毛がぴょんと揺れる。

……もう会えないって、忘れたつもりだったのに、試合なんか見に来るから」
「ごめんね。それは……少し後悔してる」
「オレ、4月まで彼女、いたんすよ」
「うん」

清田はバーガーを放り出して椅子の背もたれに寄りかかった。

「自分でも可笑しいくらいにさんに似た子だった」
「なんで別れちゃったの」
「今年同じクラスになったヤツが好きになったんだって。陸上部、スプリンター。オレの方が早ぇのに」

努めて無表情を装いながら、は消えてしまいたくなっていた。どうしてこうなっちゃうんだろう。今の清田の顔を見ていると、三井と藤真を思い出して、それもつらい。

「神さんに言われた。そりゃさんの代わりにされてたことに気付いたからだろって。付き合い始めてからはそんな風に思ったことなかった。ちゃんと好きだと思ってた。だけど、別れようって言われてもあんまりショックじゃなかったし、決勝の初日にさんに会って、神さんの言う通りだったって、気付いて――

清田はまた口を尖らせる。

「今日だって、まさか会うとは思わなかった」
「普段なら部活してる時間だしね」
「でもオレ、邪魔しようとか思ってなくて」
……色々つらいことが重なっちゃったんだね」

だから遠慮がなくなって、心のたがが外れてしまったのだ。おそらく三井や藤真に比べれば、清田の想いは遥かに軽いものだっただろう。けれど、彼女には振られるわインターハイには行けないわ、には公延がいて、の向こうに見える湘北は今年もインターハイへ。

程度は違えど、藤真のように理不尽に感じたのだろう。

「木暮さんいないんだし、木暮さんさんのこと置いて東京行っちゃったんだし、その間くらいって思って」
「純粋に友達なら、それだってよかったんだよ。リョータくんとか花道みたいに」
……無理だよ、オレさん好きだもん」

清田はもうヤケクソである。も驚かない。

「スイッチ入れるみたいに好きじゃなくなれるんなら、そうするよ。でもそんなの無理だろ」
「好きになるって、めんどくさいね。そうやって私は友達になれたかもしれない人を何人も失うんだ」
「もっと大人になったら、友達になれるかもしれねえっすね」

ふいに肩の力を抜いて、清田はまたバーガーにかじりつき始めた。

「でも、大人じゃなくてよかったかも。大人だったら多分オレ遠慮しねえもん」
「だろうね。清田くんだけじゃなくて、他の人たちもそうだっただろうね」
「あーもう、どうしてこうなるんだ」

包み紙をくしゃくしゃと丸めて、トレイにポイッと投げ出す。それにはも同意だった。

……この間ね、幸せそうだなって言われたの」
さんが?」
「そう、公ちゃんにもらったプレゼントを見て、そいつはそう言ったんだけど」

相手が清田なので、口が裂けても流川だとは言えないが、は回想とともに言葉が口を衝く。

「そうでもない、そんな単純な話じゃないって言ったらね、そいつ、『そうやってグダグダ言ってるのも幸せ』なんだって言うんだよ。そうか、なるほどーって思っちゃってさ。公ちゃんのことも藤真先輩のことも、清田くんと今こうしていることも、私が苦しいつらいって思っても、そんな時間があるだけ幸せなのかって」

全て、幸せな恋だったのだ。三井も藤真も流川も清田も。

「どうしてこうなるんだっていう気持ち、よくわかるよ。あんたたちほんとにめんどくさいよ」
「全部一緒にすんなよ」
「私とっては湘北も海南も翔陽も全部おんなじだよ、何が違うの。バスケしてる人たちだよ」

王者と称されてきた海南には面白くない台詞だっただろう。清田は音を立ててレモネードを啜り上げる。

「ふん、全部同じならなんでオレじゃだめなんだよ」
「全部同じなのは公ちゃん以外の人だからね」
「なんでそんなに特別なん」
「生まれたときから一緒だからだよ。耳が聞こえて目が見えるようになったときから公ちゃんは私の全てだから」

は襟元に下がるペンダントに制服の上から手を当てて、自分に言い聞かせるように言った。

「あー、なんかわかった」
「え?」
さんがモテる理由」

そう言われてしまっては、は何も言い返せない。清田はを真正面から見つめている。

さんがあんまり木暮さんのこと想ってるから、そんな風に想ってもらいたいって思うんだな。木暮さんみたいにさんに愛されたいって思ってんだよ、自分は木暮さんじゃないのに」

は、それが清田の独白であることに気付いた。三井も藤真も流川もこれに当てはまらないことをよくわかっている。清田はそれを「がモテる理由」としたが、取りも直さずこれは清田がに惹かれる理由だ。

……清田くん」
「信長」
「え?」
「信長って呼んでよ」
……わかった。信長、帰ろう。送って」

清田はにやりと笑って席を立った。トレイを片付け、店を出る。ようやく暮れてきた空がオレンジと紺のグラデーションになっている。この時期はだいたいどこもテスト前なので、駅前は勉強する気のない学生が多い。その中をと清田は黙って通り過ぎていく。

15分ほど歩くと、の帰り道はほぼ住宅街に差し掛かる。夏の夕方は長く、行きかう人も多い。

さんインターハイ見に行く?」
「行くよ。公ちゃんと赤木くんと行く」
「何を見に行くんすか」
……リョータくんとアヤちゃん」
「え?」

桜木か流川か、そんなところかと思っていた清田はきょとんとした顔をしている。

「リョータって宮城、さん、と、マネージャーの人?」
「そう、ずっと味方でいてくれたふたりだから。ふたりの最後の夏を見届けたいの」
「ふーん、そっか……

ポケットに手を突っ込みながら歩いている清田は、かくりと首を傾げた。

「秋には国体、冬には選抜があるけどさん受験だしなあ」
「来年の県大会なら見られるよ」
「あっそーか、その頃オレキャプテンだわ。そのときまた見に来て」
「公ちゃんと一緒でいいなら」
「それはやだ」

もう清田に男の色はなかった。は、ヒヒ、といたずらっぽく笑った。こうなると桜木と大差ない。

「でもどっちみち花道たちが3年でしょ、見に行くと思うけどな」
「ふん、ボロクソに負かしてやるよ」
「あ、なんか信長に戻ったね」

もう次の角を曲がれば自宅である。は息を吸い込み、さらっと言う。

「もうすぐそこだから。送ってくれてありがとね」
…………
「そんな顔しないで。大丈夫、信長はかっこいいんだから、素敵な人が現れるよ」
さんがいい」
「ごめん、信長、もう帰るね」

一歩踏み出したを、清田が後ろから抱き締めた。咄嗟のことだったのだろう、腕は強張っていて隙間だらけ、体も触れてはいるが密着していない。ただ後頭部に清田の頬がぺたりとくっついている。

……さんがいい」
「信長、試合に負けるよりよっぽどかっこわるいよ、こんなの」
「かっこわるくてもいい、試合にももう負けない、だから――
「信長、私ね、大学出たら、結婚するんだよ」
……え?」

腕が緩む。はするりと抜け出して振り向き、出来るだけ笑顔を作った。

「去年、プロポーズされたの。私は幼稚園の頃からそれを待ってた」
……ほんとに?」
「ほんと。指輪ももらったよ」

清田は呆然としている。は襟元から指輪を引っ張り出し、つまんで差し出す。

「信長はいい子だよ、好きだよ、友達になりたい。でも、それは出来ないんでしょ」

なぜみんな赤木や宮城のようになれないのか――悲しいけれどそれがの天命だ。

「ありがとう信長、国体も選抜も、来年も、頑張って」
……さんもね」

もう清田は何も言わなかった。くるりと振り返り、少し猫背の背中で去って行く。はそれを見送りながら、群青の夏の空の下で呟く。

「信長、幸せな恋をしてね――

この日の記憶ですら幸せな恋と思えるだけの、新しい恋をどうか彼に。は祈った。

END