「〜、こっちこっち」
彩子はの姿を見つけると腰を浮かせて手を大きく振った。駅前のカフェはちょうど学生でいっぱいの時間帯である。に比べると学校からの距離が近い彩子が先に到着していたらしい。テーブルの上にはグランデと思しきサイズのカップにシナモンロールがスタンバイしている。
「遅くなってごめんね、買ってくるから待ってて」
はテーブルを挟んだソファにバッグを置くと、財布を取り出してカウンターへと向かった。アヤちゃんめ、シナモンロールなんて頼むとは。私も食べたくなっちゃうじゃないか。はカウンター脇のショーケースに吸い寄せられていく。途端に口の中がスコーンだと言い始めたので、素直に従う。
その代わり、ビバレッジはカフェアメリカーノにしたのだが、席に戻ってみると彩子はクリームがてんこ盛りになっているホワイトモカだった。
「ふぬーアヤちゃんドリンクまで甘いの……」
「やだガマンしたの、女のお喋りに甘いものは必須でしょうが」
にんまりと笑う彩子のホワイトモカを見つめながら、2杯目はホイップ追加のラテにしようと心に決めただった。もう中間考査も終わったのだし、カフェインのきついコーヒーを飲む必要もない。人の面倒で数倍の苦労を強いられたテストが終わったのだ。たまには甘すぎる午後もいい。
「バカどものおかげでお疲れ!」
「あはは、お疲れー!」
彩子の掲げたカップにのカップが当たってかちりと音を立てる。中身はコーヒーだが乾杯とする。
「だけどほんと、無事に終わってホッとしたよ」
「ほんとにありがとね。部員でもなきゃ同じ学校でもないのに」
「変な話だよね」
湘北バスケット部主力選手、もとい、湘北バスケット部学業怠慢選手4人は無事に合格ラインを守り、期末考査まで補習という危機から脱することが出来た。赤点4つ取った時点で補習ということになっていたが、なんと全員が赤点を1つも出さなかったという快挙のおまけまでついて、も彩子もホッとしている。
「しかし1年ふたりは奇跡だったわ。どんな魔法を使ったんだって噂よ」
「でもまあ秋とは言え1年の中間だから可能だっただけだと思うよ」
「ああ、そうかあ、確かにリョータはあと3点で赤点ってのがあったわね」
「リョータくんも頑張ったよね」
「任期は浅くともキャプテンなのよ、それだって怠慢だわ」
シナモンロールに噛り付きながら彩子はぷりぷりと怒っている。
「三井先輩も大丈夫だったみたいだし、先に試験受けてた赤木兄妹ももちろんよかったし」
「ねえねえ知ってる? 公ちゃんは少し順位下がったんだよ〜」
コーヒーカップを口に近付けながら、はニヤニヤしている。
「ええっ、うそお。だって成績下げないことが条件だったでしょ、合宿」
「実際、合計点は少し増えたんだけど、みんな3年生だからねえ。他が上がっちゃったみたいで」
公延のおかげでいらぬ苦労をしたは嬉しそうだ。勉強を見てやるだけならともかく食事の用意も自分の中間対策もしなければならなかったあの数日のことは、出来るならあまり思い出したくないほどに大変だった。
「しかも冷蔵庫の中身がアレでしょ、公ちゃんいい年してコッテリ絞られてた」
「ていうか木暮先輩が不幸で嬉しそうね」
「だって全部公ちゃんのせいだもん」
そういう彩子もにやつく口元を抑えられない。
「穿り返すこともないんだけどさあ、なんかこう釈然としないっていうか、アタシが怒ってもしかたないんだけど」
「こういうのって順調なときはいいんだけど、たまに何もかも嫌になるよね」
「というかさ、対外的にはともかく、実情としては付き合ってる、のよね?」
傍から見ているとそれすらあやふやなのが公延とだ。
「言葉にすると公ちゃんが腐れ外道になるよ」
「あー……そうよね、手は出してるんだものね」
対外的なものが伴わないのにも理由はあるのだが、そんなものはあくまでも個人の事情であって、黙っていてはわかってもらえるわけがない。その辺りの公延の自覚が足りないのが1番の原因なのだが、こればかりは他人が諭したところで直らない。本人が実感しなければ解らないことだ。
「まあそれも大したことではないんだけどね、一応受験生だし」
「あのさ、たきつけるわけじゃないんだけど、他にいいなって思う人はいなかったの」
「それがまったく」
「それもある意味異常なんじゃないかしら……」
「そう思う」
自身は望まないのに、最近になって急に「他の人」という選択肢が生まれてしまった。無視、忘れる、関わらない、でよかったのだが、なぜかどうしても気になってしまう。その「気になる」も公延への気持ちが揺らいでいるというより、公延と自分の関係が揺るがされてるという不安感であり、得体の知れない恐怖でもあった。
まさか公延以外を選ぶわけはないと思う。しかし公延はあやふやで煮え切らない。そんな浮ついた状態に入り込まれて、自分が揺らいでしまったらという恐怖。もし関係が破綻してしまったら、それが両家の間にまで広がってしまったら、という恐怖。
しかしこのことに関して同じ学校の友達には相談のしようがなかった。ただでさえ中高一貫の女子校であるアナソフィア、高校2年生ともなると女子校に進学したことを悔やみだす生徒も少なくない。相談はいいから誰か紹介しろと言われて終わるのがオチだ。
しかも、いい感じの幼馴染がいる上に告白されたなどと言おうものなら、友達が何人か消えるかもしれない。
「こんなこと、アヤちゃんにしか言えないんだけど」
「おっ、なになに、何があったのよう」
過去の暴露話か何かと思って身を乗り出した彩子は、直後にげんなりした顔をしてシナモンロールを齧った。
「あーいやだいやだ、めんどくさいわあ」
「めんどくさいけど助けてよ〜 」
「いやあよ、アタシにとっては一応先輩だもの」
口いっぱいのシナモンロールをホワイトモカで流し込んだ彩子は、はあと大きくため息をついた。
「そうかあ、三井先輩は去年からの話だもんねえ」
「私たちが嫌がるのを楽しんでるんだとばっかり思ってて」
「それが本質だったんじゃないの、途中から変わっただけで」
「そんな風には見えなかったんだけどなあ」
「というか、完全にモテ期到来ね」
ひとりに告白されただけでモテ期? 自覚のないは首を傾げた。
「ええと、又聞きごめんね、ほら夏祭りの時に」
「夏祭り……たくさんいたよ、バスケしてる子が」
「自分のことになると無自覚か」
「何がよ」
は湘北バスケット部での自分の噂の出所は全て桜木だと思っていたのだが、赤木兄妹からも少し話が流れていたようだ。彩子は無自覚と言うが、これは仕方あるまい。
「翔陽の藤真と、海南の清田と牧と、じゃなかったかしら」
「みんなちょっと喋っただけだよ。まあその……藤真って人はアレだったけど」
「アレってなによ」
は翔陽とアナソフィアの交流や文化祭での黒歴史をかいつまんで説明した。
「休めるものなら休むんだけど、今年はまた運悪く案内係で」
「後夜祭も案内やってるの?」
「後夜祭が始まっちゃえばそりゃ仕事なんかないけど、始まるまで目立つところにいるからね」
「ああ、簡単に見つかっちゃうわけね」
ただでさえ目立つ存在の藤真なんかに声をかけられたくないのだが、見つかってしまってはどうにもならない。慌てて逃げ出しても愛想良く応対しても、アナソフィア高等部でのの立場はあまりよろしくない方向へ向かう。それもこれも公延が家族枠で遊びに来ないのがいけないのだ。少なくともはそう思っている。
「スルーすることは簡単だろうけど、それこそめんどくさいよ」
「海南は接点ないからいいけど、そこは盲点だったわね」
これで清田にまで周囲を騒がされたらたまったものではない。とんだモテ期である。
「それに……気付いたかな、」
「え、まだなにか……」
しかし彩子は穏やかに微笑んでいる。まさかアヤちゃん私のこと……と一瞬思ってしまうくらいに美しい笑顔だ。
「流川」
「……が?」
「たぶん、のこと好きよ」
「…………ないない!」
は少し頭の中を整理してから手を忙しなく振って否定した。にしてみれば誰でも同じことだが、それでも輪をかけてあり得ない人物だ。少し心配をしたくなるほどバスケット以外のことに興味がないはずだ。
「ないでしょ……?」
「そりゃ、言葉にして好きだなんて言ってないわ。でも間違いないと思う」
「そんな……」
彩子はぐいっとカップを傾けると、コンと音を立ててトレイに戻した。酒を飲んでいるようにも見えてしまう。
「こんな状況も嫌だけど揺れそうになってる自分はもっと嫌、ってところかしら」
「まさにそんなところ。私、公ちゃんが好きだったんじゃなかったのかな」
「そりゃあ好きでしょ。だけど好意を向けられれば揺らぐのは当たり前よ。先輩はぼんやりしてるし」
「好きなのに揺らぐって、それが1番情けないよ」
ふたりは頬杖をついたまま視線をそらして窓の外を行き交う人々を眺めている。想い人がいない状況でこんなことが起こるなら、それは歓迎したいくらいだったかもしれない。だが、は公延と想い合うこと以外望まなかった。ちやほやされて色々な男の子にモテたりなんてしなくていい、公延ひとりだけいればそれでよかった。
「ねえアヤちゃん、アヤちゃんはどうしてバスケやめたの」
情けない自分に答えなど出ないから、は気になっていたことを口にしてみた。
「やめてないよ。マネージャーだけど」
「でも中学の時は女バスにいたんでしょう。もうプレイはしないの」
ふたりとも視線はまだ外に置いたままだ。
「……思ったように出来ないのよ。胸がね、急に大きくなっちゃったせいで」
は顔を戻して彩子を見つめたが、彩子はまだ外を遠い目で眺めている。
「だから、ずっと嫉妬してるの」
「部員のみんなに?」
「自分がしたくても出来ないことを、あいつらは易々とこなしちゃうのよね」
少しずつ暮れ始めた午後の空を、クリームのような雲がゆったりと流れている。
「それに、自分を重ねてるの。自分がプレイしてる気になって、達成感を感じて」
「だからリョータくんのことも?」
少しだけ口元に笑みを浮かべただけで、彩子は返事をしなかった。夕暮れの空に溶けゆく雲のように、彩子のカップに浮かぶクリームがほろりと崩れ落ちた。
END