聖アナソフィア女子学院の文化祭は、全校挙げて2日間かけて執り行われる。文化祭ではあるが入場は厳しく制限され、基本的には事前に申請した生徒の家族、そして聖アナソフィア教会の関係者しか入れないことになっている。しかも、例え家族と偽って事前に申請をしても、男性のみでは入場が許可されない。
これだけ厳しく制限されているのだが、文化祭期間中、学院の敷地内は制服を着た男子生徒で溢れ返っている。彼らは翔陽高校の生徒たちである。遡ること5代前の翔陽の校長は信仰に厚く、アナソフィアの理事会と懇意にしていたのだと言う。その頃に始まった生徒会同士の交流が今も形を変えて続いている。
はじめに生徒会同士の交流があり、次いで吹奏楽部、科学部、書道部など部活単独の交流が続き、数年が経過する頃になって文化祭中の交流が始まったといわれている。基本的には部活単位の協力であり、展示に関わらない運動部などは交流もないはずだったのだが、ある年、翔陽サッカー部で事件が起こる。
当時のキャプテンにアナソフィア女子の彼女が出来てしまったのだ。
以来、翔陽の生徒はごく一部の例外を除いてアナソフィア文化祭に全員で押しかけてくるようになった。方や翔陽の文化祭にもアナソフィアの生徒が大勢でやってくるようになり、お互いに男子校女子校であるデメリットを補い合っている。
この点については両の学校側は黙認状態だ。元々両校は偏差値も高く素行の悪い生徒は滅多に発生しない厳格な校風であるし、交流が始まって数十年が経過するが、問題が起きたことは一度もない。生徒たちは信頼されていると共に、慎重さと要領のよさを併せ持っていた。
さて、そんな伝統の文化祭で苦々しい顔をしているのはである。
緑地に金の刺繍で「案内係」と書かれた腕章を付けて、講堂と教会の中間に立っている。教会に近い入り口から入ってきた客を校舎の方へ誘導する係だ。教会ありきで始まった聖アナソフィア女子学院は教会付近の入り口が駅に近く、校舎に近い入り口は遠いのでここを通る客が多いのだ。
「看板でも立てておけばいいじゃないよ」
同じ腕章を付けたクラスメイトの横で、は落ち葉を蹴り上げた。
「そう? 楽でいいと思うけどなあ。翔陽くんたちも絶対ここ通るんだし」
「だからいやなのに」
「えーなんでぇ? 翔陽のカレシ、欲しくない?」
保護者と思しき客を誘導しつつ、クラスメイトはとろんとした目で微笑んでいた。大挙して押し寄せてくる翔陽男子と付き合いたいようで、今日はいつもよりサラサラでツルツルの髪をしていた。
だが実際のところ翔陽とアナソフィアにおける文化祭カップル成立率は決して高くないのが現状だ。いくらアナソフィア女子が一種のブランド化を起こしていたとしても、一ヶ所に全員で集まってしまえばどうしても優劣が出る。逆の翔陽文化祭でもこれは同じ。目立つ生徒に人気が集中し、結局成立しない。
それよりは真面目に部活上の交流を務めた生徒たちの間の方がカップル成立しやすい。が、これは地味な展開を見せることもしばしばで、その結果成立したことが周知されず、目立つ生徒を中心に置いたから騒ぎの渦中にいた場合は知らないままであることも多い。
同様こんなところで案内係などをしているクラスメイトの場合、部活動をやっていない可能性も高く、必然的に人気者争奪戦コースということになる。それにしてはおっとりした子なので、まあまず翔陽カレシは出来ないだろう。はそう読んだが、もちろん本人には言わない。
公ちゃんのバーカ。は案内係をクラスメイトに押し付けながら枯葉の山の前で黄昏た。
公延との場合、両の母親がOGであるし、公延を兄だの従兄弟だのと申請してしまってもどうせ家族総出で訪れるのだから、入場は容易なはず。藤真が来るかもしれないのに、を守ってやろうとは思わない。というより、藤真がにちょっかいをかけるとは思っていない。
がそのことについて不安だと漏らしても、なびかなければいいじゃないか、で終わってしまう。
そういうことじゃないのに。オレの女に近付くなって、勝手に話しかけるなって、思わないの?
悶々とするは、すぐそばに人影が近付いていることに気付かず、肩に手をかけられて初めて顔を上げた。恐れていた通り、藤真である。さらりと前髪が揺れる様がキラリと音を立てるようだ。
「久し振り。門をくぐって20秒で会えるとはね」
「運が悪いことに案内係なもので」
「しばらく振りだっていうのに、刺々しいな」
「先輩は目立つのであまり寄らないでもらえますか。こっちの先輩たちの嫉妬が怖いので」
「女の世界は怖いねえ」
「先輩は幼馴染の知り合いですからね」
「そういうことにしておきたいわけね」
「事実です」
枯れ落ち葉から目を外すことなくは淡々と話した。その横でを覗き込むようにして語りかけていた藤真だったが、もう一度肩に手をかけると去って行った。それを待ちかねていたようにして同じ案内係のクラスメイトが飛んできた。無理もない。
「なに今の〜あんなかっこいい知り合いいたの〜?」
「幼馴染の知り合い。幼馴染元気かって聞かれただけだよ」
「え〜でも肩に触ったりとかしてたじゃない」
「そういう人なんだよ。誰にでもするの」
だから嫌だったんだ。は顔には出さずとも、今の状況全てを呪った。呪いながら愛想よく案内係を務めるのは苦痛でしかなかったが、藤真のことを根掘り葉掘り聞きたがるクラスメイトをサボってきていいよという口実で追い払うと少し気が楽になった。
そうして16時、全ての門が閉まる。門が閉まると後夜祭の始まりである。展示は全て終了、グラウンドではキャンプファイアを焚き、体育館では立食パーティ、講堂はダンスフロアへと変わる。
は、どこにも行きたくなかった。
それならばさっさと下校してしまえばいいのだが、私物が置いてある教室は展示に使われていて、もうしばらくは入れない。そもそも後夜祭を抜け出して帰りたい生徒などいないので、この時間帯に帰り支度が出来るようにはなっていないというのもある。
さてどこにいようか。どこにいても人目についてしまう場所は困る。藤真以外にも翔陽男子は大勢いるのだ。約束がないなら一緒にどうかと声をかけられるのもご免だった。
結局は案内係の担当場所だった路地を少し離れ、教会近くのベンチに落ち着いた。既に薄暗くなり始めている教会周辺は不気味ではあったが、鉄壁のセキュリティに囲まれた敷地内である。不気味ささえ気にならないなら人の目にも付かず都合がいい。
まさか藤真もこんな所にいるとは思うまい。去年のを知っているなら講堂へ行く方が確実だ。自身、藤真のことがないなら講堂へ行くつもりだった。ステージに立つ予定はないが、有志のパフォーマンスが終わってしまうと飛び入りタイムとなる。今年はふざけたKe$haでもやろうと思っていたのに。
だが、腐るあまりの判断力は鈍っていた。
「こんな所にいたのか!」
「ええええええ」
ベンチで黄昏ること1時間もしないうちにあっさり見つかった。思わず悲観の声を上げる。
「探したんだよ」
「探さないで下さいよ。ていうか私のこと聞いて回ったりは……」
「まさか、してないよ」
にっこりと笑う笑顔がまたキラリと音を立てるようだ。藤真は許可も取らずに隣に腰を下ろして距離を縮める。はもう観念するしかないかと諦めた。公延の言うようになびかないことこそが肝心なのだし、自分は2年生藤真は3年生、接点はこれっきりで終わる。
「まあでも、オレもちょっと人の多いところは面倒だから助かった」
「今からグラウンドでも行きましょうか先輩、ご案内しますよ 」
「そういう可愛くないこと言うと抱き締めるよ」
可愛い顔をして恐ろしいことを言う。はハーッとため息をついて仰け反った。あくまでも学生同士の健全な交流が建前となっている両校の文化祭においては、手を繋ぐ程度が限界といっていい。行き過ぎた行為が発覚すれば交流そのものが廃止される恐れがあり、そのきっかけになることを避けるのが礼儀というものだ。
こんな風にひと気のない場所であっても、敷地内であり屋外である。藤真がを抱き締めてしまい、それを目撃されたら、交流が廃止になったら。とりあえずは残りの学校生活を針の筵で過ごすことになる。そのあたりをよくよく弁えた効果的な脅し文句である。
「人当たりの良さそうな顔して、腹ん中真っ黒じゃないですか」
「そりゃあ、君が相手してくれないからね。黒くもなるよ」
「何で私が先輩の相手をしなきゃならないんですか」
「ならないってことはないけど、して欲しいと思ってるだけだよ」
素直といえばそれまでだが、の神経を逆なですることこの上ない。
「私、好きな人いるんで、あんまり他の男の人とお近付きになりたくないです」
「ガード固いなあ。好きな人って木暮?」
「夏祭りのとき、見て解りませんでしたか」
は皮肉を込めて、呆れたようにせせら笑ってみたのだが、効果がなかった。
「解らなかったね。なんだかどうにも付き合ってるようには見えなかったから」
ちくしょう公ちゃんのせいでこんなにことに。は心の中で公延を口汚く罵った。
「まあその後赤木たちとも話したりして、もっと気になってしまった、てとこかな」
「だからって……」
「君が悪いんだよ」
「はあ!?」
あまりといえばあまりに失礼な物言いには、そっぽを向いていた顔を勢いよく戻した。桜木のような憤怒の表情で藤真に食って掛かるつもりだった。だが、振り向いたの顎に藤真の指先がスッと伸びてぴたりと止まった。は緩やかな恐怖に動けない。言葉も出ない。
「君は、本当に可愛いから。しかも多才で、性格がどうであっても、人を惹きつけずにいられないタイプの人間だ。例えどこかに難があっても、それが逆に魅力的に見えるような、そういう罪作りな人間だからね」
可愛らしい笑顔を崩さなかった藤真の口元が、少しだけ歪み出した。
「オレも自分が何やってるのかよくわからないんだけど、君には木暮がいて、木暮はオレたちから決勝リーグを奪って、木暮には君がいて、オレは既に3年で来年はもうアナソフィアには来ない。なんだか理不尽な気がしてさ」
お前の方が理不尽だとは言いたかったが、とりあえず竦み上がってしまっているので、声が出ない。
「これっきりでもう会えないんだと思ったら、いてもたってもいられなくなってさ」
少し危険を感じるような表情だった藤真だが、小さく息を吐くと元に戻った。優しい笑顔である。
「木暮はともかく、君が揺るがないことくらいわかってるよ」
「ともかくって、別に公ちゃんは……」
「彼女だなんて一言も言わないんだもんな。いらないんならくれよって思ったよ」
再度は心の中で暴言を吐きまくった。
「まあでも、余程のことがなきゃオレたちは2度と会うことはないから安心しなよ」
「安心て、そんな」
「ろくに話もしないのにって思うかもしれないけど、オレは君のことが好きだよ」
藤真はベンチの上に置かれたの手に、自分の手を重ねた。
「なぜか好きになっちゃったんだ、仕方ないよ。木暮が羨ましい」
は、三井に告白されたときのようにすぐ手を振り払えない自分にまたも傷ついた。優しく重ねられただけの手を跳ね除けられない。キラキラと音がしそうな笑顔を持つ藤真もまた傷ついて苦痛の表情をしていたから。そんな藤真を哀れに思ってしまっていることに気付いてしまったから。
これは絆されているの? なびいているの? 私は一体この人をどう思ってるの?
「なあ」
とうとう名前で呼び出した藤真の声が耳に痺れる。
「もし、もし万が一、どこにも行く所がなくなったら、待ってるから」
そんな悲しいこと言わないで。はそう叫びたかったが、言葉にならない。もし言葉にして声に出してしまったら、これまでの人生を全て否定し、堰を越えて茨の世界へと堕ちることになるからだ。
「そんな、な、情けないこと、言わないで下さい。素晴らしい選手だって、聞いてます。迷わないで下さい」
「ははは、情けない、か。確かに」
藤真は重ねた手をやんわりと握り、寂しげな笑顔での横顔を見つめている。
「こんな風に好きになったのが、君でよかったよ。ありがとう、元気でな」
藤真の手が離れる。彼の手に包まれていたせいで、外気が冷たくては震えた。藤真が立ち上がる気配に顔を上げると、彼は振り返りもせずにの元を去っていった。
もし公ちゃんを好きじゃなかったら。公ちゃんと幼馴染じゃなかったら。そんなイメージが頭をよぎり、はそれを振り払うようにかぶりを振った。何言ってるの私、何考えてるの私、だったらどうなの、もしそうだったら藤真先輩と付き合うのにとでも思っているの?
私のバカ、公ちゃんのバカ。
END